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記事全文を読む→奇跡の脱北起業家〈第4回〉なぜ彼女は「平壌冷麺」と海を渡ったのか(2)断った元カレの「亡命劇」
ヨンヒの恋はあっけなく終わる。日々、マンション建設に動員され、ろくに勉強もできなかったが、たまの休み、ソンオクと過ごす時間は楽しかった。2012年の秋、平壌八景のひとつ、牡丹峰にある乙密台がその舞台となった。2人は楼閣のそばで夕暮れ迫る大同江をぼんやりながめていた。しばらくしてソンオクが告げた。
「1週間後、イタリアへ行くことになったんだ」
聞いていたヨンヒは驚く。
「いつか留学を命じられるだろうなとは思っていましたが、急だったので」
気がつくと、ソンオクの顔が近づいてきた。
「あっ、これはチューだなって。それで目をつむった、その瞬間、後ろから大声がしたんです。『トンムドゥル(おまえら)! 何しているんだ!』。保安員(警察)でした。しまった。保安員はただちに大学に報告するという。留学も取り消されるに決まっている。2人で必死に報告しないでと頼み、1時間かけて反省文を書くことで許してもらった。彼はポケットから50ドル渡した。なんとか切り抜けたとはいえ、私はもうイライラ、あなたがキスなんかしようとするからって大げんか。出発の日は見送りもせず、3年の交際は最悪なジ・エンド。アハハ」
あっけらかんと振り返るヨンヒだが、脱北後、ソウルで元カレについて仰天の事実を知る。北朝鮮の次世代をになう科学者、ソンオクを韓国の情報機関、国家情報院が追っていたのである。
「腰が抜けました。国情院で調べを受けていたとき、係官から見覚えはないかと写真を差し出されたんです。彼でした。どうやら彼が留学している情報をつかみ、韓国に亡命させようとしていたらしい。イタリアへ飛び、説得してくれないか、せめて手紙を書いてくれないか、と協力を依頼されたんです。何度も何度も。脱北してきたママに相談したら、しかられた。自ら脱北するのとはわけが違う。彼の人生に責任が持てるはずないよ、と。その通りだな、と断りました」
ひょっとしたら、世界を揺るがす亡命劇になっていたかもしれないが、ヨンヒは首を横に振った。良心が思いとどまらせたのだ。だが、迷いはある。いまも北朝鮮のメディアにソンオクが出ていないかチェックする。国際的に認められた才能が核・ミサイル開発に利用されてしまわないか心配なのだ。
「一度は結婚してもいいかなと考えた人ですから。幸せになってもらいたい。でも、北朝鮮は優秀な人間であっても捨てられてしまう。親戚にも国のためたくさん仕事をしたのに処刑されたり、追放されたりした人がいる。ショックで金策工業総合大の息子が飛び降り自殺したこともある。もったいなくて」
愛する父の死、そして恋人との別れ。気丈なヨンヒだが、むなしく続くマンション建設に言いようのない不安に襲われたりした。
鈴木琢磨(すずき・たくま)ジャーナリスト。毎日新聞客員編集委員。テレビ・コメンテーター。1959年、滋賀県生まれ。大阪外国語大学朝鮮語学科卒。礒𥔎敦仁編著「北朝鮮を解剖する」(慶應義塾大学出版会)で金正恩小説を論じている。金正日の料理人だった藤本健二著「引き裂かれた約束」(講談社)の聞き手もつとめた。
写真/初沢亜利
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