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記事全文を読む→“週刊アサヒ芸能・通巻4000号突破企画”「キャノン機関」トップ独占インタビューしたのはアサ芸記者だった(3)人生の転機は「戦後70年」
アサ芸での記者生活を続ける中で、平塚氏は第二次世界大戦に従軍した元兵士の声に耳を傾ける機会を得る。
「『ドキュメント太平洋戦争 最前線に異常あり』という連載をやったんです。『太平洋戦争研究会』っていうのを立ち上げましてね。生き残って帰ってきた日本兵の聞き書きをやろうと。将軍とか将校とかの聞き書きはあちこちの新聞で載っていたんですけど、一般の兵の声はほとんどなかったんですよ。そこは“徳間の反権力”で、一般の兵隊さんの声をそのまま載せようじゃないかと」
メンバーには、のちに小説「復讐するは我にあり」で直木賞を受賞する佐木隆三氏もいた。
「『~だと言われている』とか、『~だと書かれている』とかですとね、遠いんですね。我々は『~だ』で『。』をつけようというのが唯一の決まりでしたね。だから、原則として実名で出てもらい、本人の写真も出しています」
連載中に、テーマにした1つがペリリュー島だった。日本兵1万22人が命を落とした凄惨な白兵戦について、また、日本の敗戦を知らぬまま昭和22年4月21日に投降するまでの2年半、米海兵隊が占拠したこの島で力強く生き抜いた34人の元日本兵についてであった。もちろん、平塚氏をはじめとする太平洋戦争研究会は生きて帰ってきた本人たちに直接話を聞いている。
「取材で全国を回りましたね。誌面に出ていない人も相当いました。文章の流れ、戦闘の流れで切りわけて書くわけですし、誌面が限られてますからね」
平塚氏はその後、48歳でフリーとなる。
「サラリーマンですから人事異動はしょうがないですよね。『問題小説』とか雑誌販売部とかに移りましたが、やっぱりできれば自分で編集したり書いたりしたかったんですね」
みずから立ち上げた編集プロダクションで、思いがけない仕事が舞い込んでくる。
「沖縄の出版社から太平洋戦争写真集を編集してほしいとの依頼があったんです。なのでアメリカの国防総省から写真を取り寄せたんです。届いたのが約8000点。うちの四畳半が天井までいっぱいになるくらいでしたね」
ペリリュー島の生還者取材、太平洋戦争の米軍所蔵写真の数々の収集。戦中・戦後の歴史探索はもはやライフワークなのでは、と思われるほど。そう聞くと平塚氏は「そんな大げさな」と笑った。
しかし、平塚氏のもとにはやはりその手の依頼が集まる。2015年4月、戦後70年の折、当時の天皇皇后両陛下がペリリュー島を慰霊のために訪れることになったのだ。
「どこで調べたのか、ペリリュー関係の特集を(雑誌で)組みますので監修してくれって言われまして」
やがて、この話が漫画化、さらには映画化へと進み昨年12月、アニメ映画「ペリリュー‐楽園のゲルニカ‐」が封切られた。
「アサ芸の仕事でそうなっちゃいましたけどね。結局、何でも“現場を踏む”っていうのが身についちゃったもんですからね。私が最初にペリリューに行ったのは相当古いですよ。40年くらい前ですよ。それとね、私が個人的に興味を持ったのが、ペリリューの守備隊は茨城県の水戸の歩兵第二連隊が中心なんですよ。兵隊の大半は茨城県生まれ。私も、生まれも育ちも茨城なんです。そして、生き残った34人の中には、私の母親のイトコもいたんです」
紆余曲折を経て戦史研究家に転身した元アサ芸記者のドラマはまだまだ続く─。
アサ芸チョイス
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