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Posted on 2026年05月31日 10:01

伊藤匠・二冠が見せた「ライバル藤井聡太」への激情(2)地下鉄サリン事件と七冠決戦

2026年05月31日 10:01

 私が写真週刊誌の専属カメラマンになったのは1993年のことだった。当時の雑誌業界は熱気と勢いに溢れていて、若手にとってはチャンスが至るところに転がっていた。

 95年、羽生善治九段(55)が史上初の七冠制覇に挑んだ。六冠を保持する羽生が、残る1つのタイトル奪取をかけて谷川浩司王将(64)に挑戦した(当時は七大タイトル)。7番勝負は最終局に持ち込まれ、3月23、24日に青森県十和田市の奥入瀬渓流グランドホテルで行われ、この取材に向かう予定を組んだ。

 ところが、直前の20日に日本中を震撼させた「地下鉄サリン事件」が起きる。そして、私はサリンの置かれた車両に乗っていたのである。今でもこの時の記憶は鮮明だ。満員の通勤電車に始発から乗った私は、ドアから1.5メートルの位置に座っていた。列車が走り始めてすぐに異変を感じ、喉元を摘ままれるような閉塞感が生じて視界が暗くなった。乗客が皆咳き込んでいるが、何が起きたのかわからない。意識が朦朧として、気づけば電車は止まっていた。走り込んできた駅員3人が、座席とドアの角を指差し、「これだ! これだ!」と叫んだ。そして新聞紙に包まれた平たい弁当箱のようなものを、チリトリに入れて持っていった。それがサリンだった。

 病院で血液検査を受け、「外来では最も重症」と診断された。瞳孔が縮小し、針の穴ほどしか開かないため、公衆電話を使おうとして、手のひらの上で10円玉と100円玉の違いがすぐにわからなかった。

 病院はロビーまで被害者で埋まり、薬も治療法もない。自宅に帰ってベッドに横たわるしかなかった。この日から鉛玉がぶつかるような激しい頭痛と吐き気に、半年間にわたって苦しむことになる。それでも事件から3日後、十和田市へと向かっていた。正直、自分でもよくぞ身体が動いたと思う。何としても羽生と谷川の世紀の一戦を見届けたかったのだ。

 王将戦第七局は激闘の末に谷川が勝ち、羽生の七冠の夢は破れた。この取材は記事にはならなかった。翌年、羽生は全てのタイトルを防衛し、残る王将も奪取する。この時の神がかった強さは、現在の藤井を凌ぐものがあった。

野澤亘伸(のざわ・ひろのぶ)カメラマン・ノンフィクション作家。1968年生まれ。上智大学卒業後、写真週刊誌「FLASH」専属カメラマンを経て、フリーランスとして活躍。小学生の頃から将棋に親しみ、各種媒体で棋士の取材を行う。「師弟シリーズ」第1作で将棋ペンクラブ大賞を受賞。

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