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記事全文を読む→名物キャバレー会長が「50年の営業日誌」を初公開!(2)水商売の人間は軽視された
それでも「ハイツ」はホステスを集め、同年10月1日に華々しくオープンする。結果、吉田氏と「ハイツ」との因縁は30年にわたって続いた。
03年5月13日の日誌に目を通しながら、現在、会長を務めるラウンジクラブ「ロータリー」で起きた“事件”について話す。
「店に来たら誰もいない。定時になっても誰も出勤してこないんだ。私もあとで移るという話を吹き込まれていたが、一夜にして全員が『ハイツ』に抜かれた。もぬけの殻になったホステスのロッカーを見た時は、さすがの私も血の気が引いたよ」(吉田氏)
この件では、単身、「ハイツ」に乗り込んで談判。1週間ほどで元のさやに納まるのだが、しばらくは一触即発状態が続いた。
一昔前のキャバレーの世界では珍しいことではなかった、と吉田氏は言う。
「皆がシノギを削っていた。体を張ってまで、自分の店、職場、女の子を守ろうとしていたよ。皆、意地と見栄とプライドがあった時代だったね」
この「ハイツ」も09年2月27日に閉店し、歌舞伎町からグランドキャバレーは消えた。この日の日誌には〈万感の思い〉と記されている。
「歌舞伎町のランドマーク」とも言うべき風林会館。このビル6Fにある「ロータリー」の会長・吉田氏は38年、福岡県八幡市(現北九州市八幡区)に生まれる。高卒後、硬派な大学に入学するため上京したが、まもなく水商売の世界に飛び込んだ。
「郷里の先輩が歌舞伎町で水商売の世界にいた。『仕事はいくらでもあり、金は稼げるぞ』と言われて、その気になっちゃったんだな」
新聞の募集広告で目に飛び込んできたのが、新しくオープンするお座敷キャバレー「おしゃれ茶屋」。応募すると採用され、吉田氏のキャバレー人生が始まった。
「月給は6000円か7000円だったと思う(大卒初任給が1万2000~1万3000円の時代)」
58年、吉田氏20歳。「歌舞伎町」という名が命名されてまだ10年ほどで、角筈、三光町の名前のほうが通る時代のことだ。店は年中無休で繁盛していた。
「客も、戦争で失った青春を取り戻そうと、派手に飲んで踊って、ムチャな遊びをしていたよ」
無遅刻無欠勤で働いて、6年目にようやく主任となった。
「6年間はボーイでトイレ掃除、使い走り、何でもやらされた。先輩が気に入らなければしょっちゅう殴られていたね」
「おしゃれ茶屋」では7年ほど働いた。歌舞伎町にも、水商売にも慣れてきた頃、声がかかり始める。
いろいろな店で経験を重ね、歌舞伎町で水商売の若手ホープとして名をはせていった。以来、歌舞伎町一筋59年。関わった店は28店舗。現在は、「ロータリー」会長のかたわら、新宿社交料理飲食業連合会・常任理事として歌舞伎町の振興にも努めている。
「私はこの業界でのし上がろうと決心し、酒も博打もやらず、仕事一直線でやってきた。当時の水商売の人間に酒と博打と女は付き物で、そんな人間の転落模様をイヤというほど見ていたよ。当時はヤクザともボーイともつかないようなのも多く、小指のないボーイも珍しくなかった。世間も水商売の人間をまともな目では見ていなかったよね。よけい、何くそって気持ちがあった」
笹川伸雄(ジャーナリスト)
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