〈こんにちは。天台宗総本山比叡山延暦寺です。ツイッターはじめました〉3月末、こんな一文で始まったのが、比叡山延暦寺の公式ツイッター。さすが、SNS時代!と一部で話題にはなっていたが、「延暦寺公式」に対しさっそく「織田信長」、そして「徳川家康...
記事全文を読む→織田信長
熟年サラリーマンは仕事でも私生活でもストレスをため込んでいる。群雄割拠の中、生き残りをかけ、戦に明け暮れた戦国武将たちが遺した言葉には、「会社と仕事」「上司と部下」など現代人の心に刺さる警句に満ちている。武将たちに学ぶ、現代を生き抜く言葉の...
記事全文を読む→明智氏が言う。「秀吉との戦を前に一人でも味方を確保したい光秀としては、義昭の上洛に対して特に断る理由もない。それゆえ『承諾しています』と返したにすぎません。光秀と義昭とが、あらかじめ連絡を取り合っていた証拠にはならないと思います。事実、この...
記事全文を読む→ここで、今一度、「本能寺の変」前後の情勢をひもといてみよう。足利義昭は、天正元(1573)年に、信長によって京都から追放されたあと、天正5年頃までは諸国の大名に自身の上洛について積極的に働きかけているが、そのあとは援護を毛利氏一本にしぼった...
記事全文を読む→なぜ織田信長は家臣の明智光秀に下剋上されたのか──日本史最大の謎の一つにまたもや新しい仮説が登場した。いわく「足利義昭の室町幕府を再興するのが目的だった」というのだ。新たな史料の発見でにわかに騒然となる一方、光秀の子孫が大胆な仮説に対して持...
記事全文を読む→なぜ織田信長は家臣の明智光秀に下剋上されたのか──日本史最大の謎の一つにまたもや新しい仮説が登場した。曰く「足利義昭の室町幕府を再興するのが目的だった」というのだ。今回、明智光秀の書状の原本の存在を発表したのは、三重大学の藤田達生教授(日本...
記事全文を読む→水野美紀の「違わないよぉぉ!」など、各出演者の鬼気迫る演技で話題を呼んだドラマ「奪い愛、冬」(テレビ朝日系)が3月3日に最終回を迎えた。最後までどんでん返しのテンコ盛りだったが、視聴者からは「これで謎が解けた!」との声があがっているという。...
記事全文を読む→「戦国武将の逸話には、創作である軍記物の記述に引きずられ、それが定説となってしまうことが多い」──そう語るのは戦国武将・明智光秀の子孫で、先頃「織田信長四三三年目の真実信長脳を歴史捜査せよ!」(幻冬舎)を上梓した明智憲三郎氏。実は光秀の主君...
記事全文を読む→「うつけ者」と呼ばれた織田信長は好奇心が旺盛で、新しいもの、珍しいものは何でも食べたと言われる。当時、ポルトガル人によって日本に玉ねぎが入ってきたときもさっそく食した。「当初、玉ねぎは薬として用いられていたが、“男性力”を上げる効果の凄まじ...
記事全文を読む→今秋には小栗旬が信長を演じるドラマ「信長協奏曲」(フジテレビ系)も始まるなど、ブームが再燃しつつある織田信長。その出生地については諸説あったが、ここにきて愛知県西部の愛西市と稲沢市の境にあった勝幡城〈しょばたじょう〉が有力視され町おこしが本...
記事全文を読む→1582年に発生した日本の歴史上、最大のクーデターと称される「本能寺の変」。なぜ家臣の明智光秀は主君の織田信長を討ったのか‥‥。その動機について、「信長を恨んだ末の謀反だった」というのが定説だったが、光秀の子孫がこれまでの議論に一石を投じた...
記事全文を読む→全国統一を夢見、疾風怒濤、戦国時代を駆け抜けた織田信長は絶倫だった。その源は彼の意外な“食”にもあった。天正10年(1582年)家臣・明智光秀の謀反にあい、京都本能寺で自害(享年49)したとされる戦国武将・織田信長の“人生50年”は絶倫生涯...
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