もう真夏の外出は、根性で乗り切る時代ではないらしい。気象庁は今年、最高気温40度以上の日を「酷暑日」と新たに決めた。猛暑日を超える暑さが日常化したことで、服そのものが冷却機器になる流れも加速している。これまでのファン付きウェアは「現場作業用...
記事全文を読む→信長ブーム再燃の裏で「生誕地論争」が集結
今秋には小栗旬が信長を演じるドラマ「信長協奏曲」(フジテレビ系)も始まるなど、ブームが再燃しつつある織田信長。その出生地については諸説あったが、ここにきて愛知県西部の愛西市と稲沢市の境にあった勝幡城〈しょばたじょう〉が有力視され町おこしが本格化するなど、大騒ぎなのだ。
今年で生誕480年を迎えた織田信長。これまで信長の生誕地として、通説とされてきたのが、現在の名古屋城二の丸付近にあったとされる「那古野城生誕説」だった。
ところが、愛西市教育委員会社会教育課の課長補佐、石田泰弘氏の研究成果が実り、通説だった「那古野城生誕説」から最近では愛知県西部の愛西市と稲沢市の境にあった「勝幡城生誕説」が広く認められつつあるのだ。石田氏が解説する。
「歴史学の世界で長らく採用されてきた那古野城生誕説は、天文元(1532)年に信長の父、信秀が今川氏豊を攻めて那古野城を奪取し、その2年後に信長が生まれたという説でした。私が日本史を専攻する学生時代に、勝幡城生誕説をレポートにまとめて提出したところ、教官に『アホか!』と一蹴されたほど。勝幡城生誕説というのは、古くから地元で伝わってきた伝承にすぎなかったんです」
ところが、石田氏が佐織町(現愛西市)の教育委員会に勤務している時に、江戸時代中期に尾張地方の古城についてまとめた「尾州古城志」の写本を見つけたことが大きな発見の契機となった。
「『尾州古城志』には「天文3(1534)年5月28日、勝幡城において信長出生」と書かれていました。また京の公家、山科言継の日記『言継卿記』には信長出生の前年、1533年7月に言継一行が勝幡城を訪問しているとありました。もし1532年に那古野城を奪取していたならば那古野に招待するのでは? と思ったんです。だから必然的に1534年に誕生した信長の出生地は勝幡城以外ありえないということになります」
さらに、「言継卿記」には、名古屋城の今川竹王丸(今川氏豊の幼名)が勝幡へ訪れて言継に面会したという記述もあり、1533年7月時点で勝幡城には信秀が、那古野城には今川竹王丸がいたことが“証明”されたのだ。
そこで石田氏は研究成果を92年に「織田信長出生考」を発表したところ、反論はほとんどなく、逆に多くの支持を得たばかりか、今や「勝幡城生誕説」が定説化しているのだ。
突如、降って沸いた信長生誕説に地元・愛西市も大いに盛り上がっている。10年には地元住民が「信長生誕を育む会」を立ち上げ、翌年にはNPO法人化。地域振興に一役買っているという。事務局長の水谷眞人氏によると、
「勝幡が信長生誕の地であることを多くの人々に知ってもらうために一昨年から『信長生誕祭』を開催しています。3回目となる480年祭では約800名の方が来場し、たいへん盛り上がりました」
また、地元でクレープ店を営む会員は、信長の名前を冠したメニューを用意するなどしてPRにも余念がない。
この動きに行政も反応し、昨年3月、名古屋鉄道勝幡駅前の広場に父の信秀と母の土田御前に抱かれた赤ん坊の信長の銅像や勝幡城の復元模型、地元の芸術家による壁画が設置された。
「これからもイベントの開催やホームページなどを通じて信長生誕の地、勝幡をPRしていきます」(前出・水谷氏)
今後、ますます信長フィーバーが加速するのは間違いなさそうだ。
アサ芸チョイス
ドジャース・大谷翔平の第二子誕生をめぐって、フェミニストを名乗る女性たちがSNS上で「多産DVだ」「年子出産は女性虐待だ」と騒いでいる。大谷夫妻は昨年4月20日に第一子誕生を報告、この6月20日に第二子誕生をアナウンスした。これら誹謗中傷コ...
記事全文を読む→一発出たら同点。3-7と4点をリードされて迎えた7回裏、二死満塁の場面。この日いちばんの勝負どころで、広島・新井貴浩監督がベンチから送り出した代打は捕手・石原貴規だった。結果は空振り三振。最大の山場でなぜ、より長打を見込める打者を送り込まな...
記事全文を読む→これはトレードのショーケースなのだろうか。そう思ってしまったのは、阪神タイガースの梅野隆太郎捕手が2軍から再昇格し、6月23日のヤクルト戦に即スタメン出場して攻守に高い能力を見せつけたことだ。1-0とリードした5回に二塁打を放ってチャンスメ...
記事全文を読む→

