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記事全文を読む→深作欣二、萩原健一に「Vシネマみたいな台本だよ」
それは、日本の映画ファンにとって夢の顔合わせだった。74年のドラマから約20年、ついにスクリーンで「深作欣二VSショーケン」が実現したのだ。70年代以降、監督と役者の立場で若者たちを熱狂させてきた2人は、真っ向から「90年代のアクション」に取り組んだ。
「萩原氏、病気が治ったら一緒にやろうや」
ふらりと、深作欣二が順天堂大学病院の病室にやって来たのは91年のこと。突然のことに萩原健一(62)が驚いていると、深作は時代劇からドキュメントまで5つの台本を手に抱えていた。
「どれでも好きなのを選んでいいから」
萩原は当時、耳の後ろに慢性真珠腫を患い、大河ドラマ「太平記」の新田義貞役を降板した矢先だった。三半規管の機能を奪われ、立っていることもできなかった。幸い、悪性腫瘍に進展することはなかったが、生涯で最大の難病だったと萩原は言う。
「深作さんが持って来た台本を読み比べたら、大阪・西成署の刑事がヤクザから賄賂をもらって、釜ヶ崎で暴動が起きるって話がおもしろそうだった。ただし、芝居のできるエキストラが500人くらい必要なんだけど、まあ、深作さんが監督なら予算も出るだろうから『これにしましょうよ』って言ったんだ」
90年10月に起きた「第22次釜ヶ崎暴動」のことである。ほかには佐木隆三原作の「旅人たちの南十字星」も候補にあったが、結果的に選ばれたのは別の作品である。それが92年公開の「いつかギラギラする日」(松竹)だった。
「深作さんも暴動の話がやりやすそうだったし、私も退院して体力づくりをやっていた。そしたら『いつかギラギラ──』に代わっている。正直、台本では一番つまらなくて、深作さんに『これ、Vシネマみたいだよ』って言いました」
それでも引き受けたのは、尊敬する深作欣二と初めて映画で組めるという一点だった。日本の映画界に多大な影響を与えてきた両者が、90年代に入るまで1度もスクリーンをともにしていなかったのだ。
また深作の名を高めた「仁義なき戦い」(73~74年/東映)の5部作で、深作には1つの後悔があった。若い世代へと継承していく「完結篇」において「ショーケンとか松田優作あたりを引っ張ってこなきゃいけなかった」というものだ。本格的な俳優活動を始めていた萩原もまた、同作を劇場で観て感銘を受けた。
「1作目は素直にすばらしいと思いました。そして2作目はキャメラが斜めになったり横になったり、ずいぶん目まぐるしい映画だなと思った」
深作流の「手持ちキャメラを多用した映像」であることは広く知られているが、その2作目の「広島死闘篇」においては、3台のキャメラのうち1台を監督自身が担当していたのである。従来の映画の枠を超えた荒々しい映像になったのも然りであろう。
全5作の途中に深作は、思わぬ形で萩原と向き合う。今や伝説と化したドラマ「傷だらけの天使」(74年/日本テレビ)の第1話と3話を演出したのだ。そこで萩原が扮した探偵・木暮修に、深作はこんなセリフを言わせている。
〈死んだ妻との間に3歳の子供がいるんだけど、高倉健の『健』と菅原文太の『太』を取って健太というんだ〉
撮影の2年前に生まれた深作の息子で、後に映画監督になった深作健太と同じエピソードだった。
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