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記事全文を読む→歴代総理の胆力「石橋湛山」(2)最愛の息子の戦死
風邪から肺炎を起こし、持病の三叉神経麻痺が悪化して言語障害まで加わった。医師団は「今後しばらくの国会出席は不可能」と判断、石橋は断腸の思いのなかで退陣を決意した。東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の54日間、羽田孜内閣の64日間に次ぐ、戦後3番目の65日間の超短命政権で幕を降ろしたのだった。
反骨精神に満ちた石橋が生涯を通じて主張した精神の片鱗は、大正10(1921)年に発表した「小日本主義」に見ることができた。植民地支配や未開地の領有は経済的にも引き合わず、かつ支配される人々の恨みを買うことから、率先して放棄したほうがいいとした。また、終戦の10日後には「更生日本の進路─前途は実に洋々たり」を発表。今後の日本は科学立国として再建すべきを提唱した。
こうした持論は、じつは最愛の次男を太平洋戦争さなかの昭和19(1944)年2月マーシャル群島で戦死させたことで、確かなものとなったようであった。石橋はその息子の死に直面した際、慟哭をまじえて次の一句を詠んでいる。
「此の戦い、いかに終わるか。汝が死をば、父が代わりて国の為に生かさん」
自らの経済理論を実践すべく政界に身を投じた石橋のなかには、もう一つ息子の死を、以後の平和国家へつながなくてはの強い思いがあったということである。
退陣後、病気の快復した石橋は、中国を訪問、周恩来総理との面会を果たすなど、総理就任時に掲げた「日中友好促進」に汗をかいた。昭和47(1972)年、田中角栄内閣時に「日中共同声明」が発せられ、日中国交正常化が成ると、翌年4月、すべてのエネルギーを使い果たしたようにこの世を去った。88歳であった。
石橋のトップリーダーとしての実績、「胆力」を問えば、政権在任期間が短いゆえ、その真価を問うことは難しい。しかし、例えば己の信念は譲らなかったこと、退陣には未練を残すのが常の権力社会のなかで、自ら潔く決したことは評価できる。「引き際」の範を示したということである。
出処進退のとりわけ「退」のあり方を見れば、どの組織でもおおむねそのリーダーの器量は見えてくるものなのである。
■石橋湛山の略歴
明治17(1884)年9月25日、東京・麻布で日蓮宗僧侶の長男として生まれる。11歳で僧籍。早稲田大学哲学科を首席卒業。東洋経済新報社社長。昭和31(1956)年、自民党総裁。総理就任時72歳。昭和48(1973)年4月25日、脳梗塞のため死去。享年88。
総理大臣歴:第55代1956年12月23日~1957年2月25日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。
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