11月に入り、朝晩の冷え込みが一段と身に染みるようになると、仕事帰りの赤提灯や大衆酒場で恋しくなるのが、湯気立ち上る燗酒だ。夏場の冷酒一辺倒から温かい日本酒へシフトする左党が増える時期だが、暖簾をくぐって開口一番「とりあえず熱燗で!」と大雑...
記事全文を読む→“日本のリヴァプール”博多スーパースター列伝<第1回>井上陽水(1)
その街は「日本のリバプール」と呼ばれ、全国のスカウトマンが“原石”を探しにやって来た。日本でも稀有なスターの産地、それが「博多」である。70年代のフォーク&ロックに始まった潮流はアイドルや演歌にも幅を広げ、今なお宝庫として君臨する。そんな歴史の第一歩を刻んだ〈巨人〉こそ、ここに記す井上陽水である──。
81年12月6日、井上陽水は海援隊、南こうせつとともに福岡・九電記念体育館のステージに立った。会場を埋めつくした5600人の観客に向け、バックの安全地帯とともに「闇夜の国から」(74年4月)や「夢の中へ」(73年3月)を披露する。
この「九州ニューミュージック・フェスティバル」と名づけられたイベントは、地元・RKB毎日放送の開局30周年を祝したものである。実現に奔走した野見山実は、博多の音楽シーンに欠かせぬ看板ディレクターだった。
「実はこの日が陽水のテレビ初出演だったんです。福岡発のローカル番組にもかかわらず、TBSを通じて全国ネットでオンエアされました」
当時の陽水はテレビ出演だけでなく、イベント的なライブに出ることも珍しい。それはひとえに、野見山に対しての“恩義”にほかならなかった。
69年4月、それが初めて陽水と会った日である。野見山はラジオの深夜番組「スマッシュ・イレヴン」を始めたばかりで、プロになりたい若者たちに門戸を開いていた。
「番組が終わった夜中の1時過ぎに『曲を聴いてほしい』とデモテープを持ってきたんです。あの大きな体にゴム草履をはいて、ボサボサの髪だったから威圧感がありましたね」
当時はカセットテープではなくオープンリールが主流。野見山が自宅に持って帰ると、いかにも下宿で録音したものらしく、チンチン電車などの雑音のほうが耳に飛び込んでくる。それでも、その奥からかすかに聴こえる歌詞とメロディに「おもしろそうだな」と思った。
野見山はRKBのスタジオで録音をやり直させ、わずかなオリジナルを親交のあったCBS・ソニーの営業担当に渡す。
「当時の陽水は歯科大をめざして三浪の身だったけど、博多でパチンコばかりやっていましたから。これで歯科医はあきらめて、東京に行って歌手になれると思ったようですね」
博多には「照和」という伝説の音楽喫茶がある。チューリップ、海援隊、甲斐バンドがデビューするきっかけとなった場所だ。よく混同されがちだが、陽水はこの店でアマチュアの頃を過ごしていない。田川育ちの陽水は、博多のミュージシャン仲間もほとんどいなかったという。
そして上京した陽水は「アンドレ・カンドレ」という名でデビュー。所属したのは、ホリプロダクションである。
レコード制作の担当として入社して間もなかった川瀬泰雄は、ある日、自分のデスクに大きな男を見つける。たまたま数日前に深夜のラジオで耳にした「九州で人気の」と紹介されていた陽水だった。
「持参したデモテープを聴いて、いいメロディだと思ったし、ビートルズの匂いがした。彼に『好きなの?』と聞いたら、つっぱった感じで『別に』と言ったのを強烈に憶えています」
そうは言いながらレッスン室の鍵を渡すと、何時間もビートルズを熱唱している。現在も「ビートルズ研究家」の肩書きを持つ川瀬が横に立ち、どんなコアな曲にもハモリを入れる。
「東京はすごい。サラリーマンがビートルズをハモっちゃうんだもんなあ‥‥」
感嘆した陽水との“二人三脚の日々”が始まった。
◆アサヒ芸能12/24発売(1/2・9合併号)より
アサ芸チョイス
脳梗塞で療養中だった伊達みきお(サンドウィッチマン)が、10月31日の「サンドウィッチマンザ・ラジオショーサタデー」(ニッポン放送)で、2カ月ぶりに復帰した。「さあ、時刻はお昼の1時を回りました。こんにちは。サンドウィッチマンの伊達みきおで...
記事全文を読む→泉ピン子が訴えられた。映画製作会社「HumanPictures」が11月3日、所属監督の映画「AYUMI」と「養父」に出演したピン子に対し、損害賠償を求め2日付で東京地裁に提訴したと、公式Xで公表したのだ。問題が発生したのは、10月23日に...
記事全文を読む→毎日のように見聞きする「不正アクセスによる情報漏洩」のニュース。もはや情報漏洩していない企業のほうが珍しいんじゃないのってくらいだし、それどころか官公庁にまで被害は及んでいる。三菱UFJフィナンシャル・グループが、2027年3月までの開業を...
記事全文を読む→

