元大関・二代目増位山大志郎(本名:沢田昇)さんが、肝不全のため死去した。76歳だった。
昭和42年に初土俵を踏み、昭和45年の三月場所で新入幕を果たすと、昭和49年、横綱・北の富士から初金星(以降、輪島から3回。全部で4回)。小兵力士ながらも多彩なワザを武器に、昭和54年九月場所から翌55年一月場所まで3場所連続で技能賞を受賞する。
千代の富士、貴ノ花、三重ノ海、隆の里といった名力士と熱戦を繰り広げ、昭和50年三月場所から新大関に昇進した。当時、史上初の「父子大関」を実現させたのである。
現役時代からムード歌謡、演歌歌手としても活動しており、YouTubeチャンネル「日本相撲協会公式チャンネル」が増位山さんの悼特別動画を公開。歴戦の数々を当時のVTRで振り返った。すると「新潟ブルースは私のiPhoneに入っています。聴きながらあなたを偲びます」「冬子のブルース大好きです」など、歌手・増位山さんを偲ぶ声が出たのである。
スポーツ選手の歌手デビューといえば、巨人・王貞治が本間千代子と「白いボール」(1977年)でデュエット。長嶋茂雄も「ZYYG,REV,ZARD&WANDS featuring 長嶋茂雄」として、シングル「果てしない夢を」(1993年)でゲストボーカルを担当している。この他にも野村克也、掛布雅之、星野仙一、落合博満など、プロ野球界には数多くの「歌手」がいる。
ボクシング界では具志堅用高、ガッツ石松、そしてプロレスではアントニオ猪木、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田といった超大物が名を連ねる。
大ヒットという点では、増位山さんが断トツだ。3枚目のシングル「そんな夕子にほれました」(1974年)は120万枚のミリオンヒット。「そんな女のひとりごと」(1977年)は、さらに上をいく130万枚の売り上げを記録した。現役を退いた後は親方となって三保ケ関部屋を継承。歌手活動も続けていた。
2022年12月に敗血症と診断されて療養。今年2月にはステージ復帰の計画もあったが、叶わなかった。天国でその美声を響かせてほしい。
(所ひで/ユーチューブライター)