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記事全文を読む→【女子サッカー秘史】澤穂希「日本人初のアメリカ挑戦」先駆者の苦悩をナマ告白「やることなくて超孤独でした」
なでしこジャパンをW杯優勝へと導いた、日本を代表するサッカー選手だった澤穂希氏。順風満帆に見えたサッカー人生だが、実は苦難の連続だったという。特にきつかったのが、1999年にアメリカのコロラド・デンバー・ダイヤモンズに移籍した時だ。鈴木啓太氏のYouTubeチャンネルで、この時を振り返った。
当時は海外に移籍する選手は珍しく、イタリアやドイツはあるものの、アメリカは日本人女子選手としては初めて。たまたま読売SCベレーザにいたアメリカ人選手がコロラドに住んでおり、数年後にアメリカに女子プロサッカーリーグができると聞かされた。そこで移籍を決断。当時はまだアマチュアだったため、金銭的に困ったという。
「働くビザじゃないから、持ち金を持って。大使館に残高証明を提出しなくちゃいけないし、だから『通帳にこのくらい貯金があります』『このお金で生活します』と提出して、ビザも何カ月分のものをもらった。チームメイトの家に滞在させてもらって、食事を出してもらったりして」
さらに苦しめたのは孤独だった。
「その時代は今みたいにインターネットがない。親に電話したら帰りたくなると思って、いっさいしなかった。まだプロじゃないからみんなも仕事をして。夕方の練習だったから、チームメイトが仕事に行ったらひとり(になる)。だから勉強するか、走るか。やることなくて超孤独だし、親に手紙を書いても、出して1週間、返ってくるのに1週間。2週間も日本語に触れない中にずっといたので、メンタルがやられそうでした。特にコロラド州のボルダーという高い場所で、日本人がその時は全くいなかったので、日本語に触れる機会もなかったですし、孤独でした」
チームメイトとのコミュニケーションは、辞書を片手に単語を調べながら。最初はチームメイトから信頼されず、パスを回してもらえなかった。アメリカのプレースタイルはパワープレー中心で、ディフェンダーからフォワードへパスがいき、中盤でのパス回しがなかったことも、澤氏を苦しめた。
「思っていたのと違うと思ったんですけど、でも少しずつ自分のプレーを見せて結果を出したら『お前、上手いじゃん』みたいになって、それですごくパスが回るようになったりとかして。こんなに変わるんだ、っていう」
翌年、プロリーグが開幕し、澤氏はアトランタ・ビートに移籍。ここではプロとして給料をもらえ、試合に勝ったら勝利金がついた。アメリカでの生活が、消極的な性格を変えてくれたという。
「今まで自分が経験しなかったこととか、今まで日本にいたら親がやってくれたこと全て、自分でやらなきゃいけない。英語でやらなきゃいけないとか、とにかくもう学ぶことしかなかった。自分の意見を伝える大切さを学んだ。すごくいいなと思っていたので、今は思うことはちゃんと口に出して言います。自分がアメリカで経験してきたことを日本代表に帰って伝えてとか、やっぱリーダーにおいてもそうだし、やっぱり誰かがやってくれるじゃなくて、自分がやらなきゃいけないと、考えがすごく変わりました」
アメリカでの生活が自身を変え、日本代表を変え、そして2011年のW杯優勝へとつながっていくのである。
(鈴木誠)
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