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「浅利純子」世界陸上ドイツ大会・1993年8月15日
五輪・世界選手権を通じて、女子マラソンで日本人として初めて金メダルを獲得したのは、1993年の世界陸上選手権ドイツ・シュトゥットガルト大会を制した浅利純子である。
「でも、やはり五輪の金メダリストである高橋尚子さん(2000年シドニー大会)や野口みずきさん(04年アテネ大会)に比べると知名度は低いですね」
やや自嘲気味に、本人は語った。
現在、浅利は出身地の秋田県鹿角市役所で地域コーディネーターをしている。自らの名前を冠した小中学生を対象にした駅伝の「浅利純子杯」は、今年で19回目を数えた。
輝かしい経歴を持ちながら、所属企業を退社後は郷里に戻り、地域のスポーツ振興に貢献している。
生まれ故郷の花輪地区は陸上の盛んな地区だ。それは坂道の多い地形と無関係ではない。
浅利の述懐。
「小学校も中学校も高校も、通学路は急な坂道ばかり。小学校は6年間、1時間かけて通学していました。冬になると雪が積もるので、下り坂はランドセルをソリ代わりにして下校していました。危険? いや逆なんです。歩いた方が滑るから危ないんです。今は熊が出没するので通行止めになっています」
浅利がシュトゥットガルト大会のスタートラインに立ったのは、93年8月15日のことだ。日本からは浅利、安部友恵、松野明美の3選手が出場した。
朝9時に号砲が鳴った。浅利は日差しよけのサングラスをかけていた。気温の上昇を想定して、ユニホームの裾を短く切った。
実は浅利、4月にマラソンコースを試走していた。シュトゥットガルトはドイツを代表する自動車の街。浅利が所属するダイハツは隣国のベルギーに支社を構えており、スタッフが試走をサポートしてくれた。
鈴木従道監督が立てた作戦は次のようなものだった。
「後半の下り坂までは、離れずに集団についていこう。下り坂に差しかかってからが勝負」
だが、想定外の事態が起きる。下り坂の手前の32キロ地点で、ポルトガルのマヌエラ・マシャドがスパートしたのだ。
「これにはすぐ対応できず、『アアーッ』という感じ。ただし離されたといっても50メートルくらい。彼女の背中は見えていたので、慌てることはなかった」
マシャドは90年代のポルトガルを代表する長距離ランナーで、浅利より7歳年上の30歳(当時)。前年のバルセロナ五輪では、7位入賞を果たしていた。
浅利は粘り強い走りでマシャドを追走し、下り坂に差しかかる36キロ地点で、ついにターゲットをとらえ、一気に抜き去った。
「並んだ瞬間、マシャドさんの呼吸が荒かった。これは一気に行こうと‥‥」
抜き去ってからは一人旅。競技場に入る前にサングラスを外し、2時間30分03秒のタイムで優勝した。
だが、快挙を成し遂げたにも関わらず、浅利はクールそのもの。理由を聞いて納得した。
「日本だとゴールテープがあるのですが、シュトゥットガルトでは、それがなかった。係員に『フィニッシュ?』と尋ねたら頷いた。『あー、ゴールしたんだ』と。フィニッシュと言われなかったら、もう一周走っていたかもしれません」
金メダルは自宅の棚の中にしまってある。
二宮清純(にのみや・せいじゅん)1960年、愛媛県生まれ。フリーのスポーツジャーナリストとしてオリンピック、サッカーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。最新刊に「森喜朗 スポーツ独白録」。
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