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「中島佑気ジョセフ」世界陸上東京大会・男子400メートル予選/2025年9月14日
陸上の400メートル走は、トラック種目の中で、最も過酷と言われている。
それはトップスピードを維持したまま、ほぼ無酸素運動の状態で走り切らなければならないからだ。
ゴールした選手が、苦痛に顔をゆがめているシーンを、よく目にする。中には“ケツワレ”を起こしている選手もいる。
ケツワレとは、陸上界の俗語で、お尻から太ももの裏にかけての激しい筋肉痛を言う。端的に言えば「尻が割れてしまうような痛み」である。高強度な無酸素運動を続けることにより、乳酸が蓄積し、レース終盤のパフォーマンスを著しく低下させるのだ。これを「地獄の苦しみ」と呼ぶ選手もいる。
1991年6月10日に、44秒78という男子400メートルの日本記録を叩き出し、以来、32年以上にわたって記録を保持し続けた高野進から、かつて、こんな話を聞いたことがある。
「最後の数メートルの苦しみといったら、絞り切った雑巾から、さらに一滴のしずくを絞り出そうとするようなもの。ゴールした瞬間、頭がガンガン鳴り、全身を激痛が貫く。400は国際大会では1日1本しか走れませんが、それは最低でも24時間空けないと体が回復しないからなんです」
絞り切った雑巾から、さらに一滴のしずくを絞り出す─。その表現に、400メートルの過酷さが、すべて集約されていた。
その高野が、世界選手権で、初めてファイナリスト(7位)となったのは91年の世界陸上東京大会だ。男子100メートル決勝で、当時の世界記録を打ち立てて優勝したカール・ルイス(米国)に向かって、長嶋茂雄が「ヘイ! カール!」と呼びかけた、34年前のあの大会である。
東京大会の余勢を駆って、高野は翌92年のバルセロナ五輪でも決勝進出を果たす。五輪における400メートルのファイナリスト(8位)は、後にも先にも彼だけだ。
高野が保持していた日本記録は2023年8月に行なわれた世界陸上ブダペストで、佐藤拳太郎によって、100分の1秒更新される。止まっていた時計が32年ぶりに時を刻んだのだ。
やっと動き始めた時計の針を、さらに先に進める選手が現れた。ナイジェリア人を父に、日本人を母に持つ中島佑気ジョセフだ。
今年9月14日、世界陸上東京大会・男子400メートル予選。舞台は21年東京五輪では、パンデミックにより観客を迎え入れることのできなかった国立競技場。この日の夜の部は5万7528人の大観衆で埋まった。
4コーナーからスタートした中島は、前半を抑え気味に走った。事前のレースプランは「最後に一気に行く」というもの。
これが功を奏した。得意の終盤に向けてエネルギーを温存していた中島は、4番手から前方の選手を追走し、最後の直線でマシュー・ハドソンスミス(英国)とポヴェル・マクファーソン(ジャマイカ)を抜き去った。
結果はバヤポ・ヌドリ(ボツワナ)に次ぐ2位。視線の先には、従来の日本記録を一気に0秒33も更新する「44秒44」という電光掲示板の数字が煌めいていた。
準決勝を通過し、決勝に進んだ中島は、ここでも44秒62 の好タイムを叩き出し、日本人男子としては五輪・世界選手権を通じて過去最高の6位入賞を果たした。
まだ23歳。ポテンシャルは無限大である。
二宮清純(にのみや・せいじゅん)1960年、愛媛県生まれ。フリーのスポーツジャーナリストとしてオリンピック、サッカーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。最新刊に「森喜朗 スポーツ独白録」。
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