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記事全文を読む→六代目山口組・中田若頭補佐「無罪」から365日の激流(1)二転三転する山健組の行く末
一度離反し、文字通り血で血を洗う抗争に突入したものの、21年9月に六代目山口組に電撃帰参した五代目山健組。勾留中の身でありながらその決断を下した当代、中田浩司若頭補佐にしてみれば、長らく止まっていた時間が、この1年で大きく進んでいた─。山口組の本流を歩んできた男の現在地とは。
現在、六代目山口組(司忍組長)執行部の一角を占める中田浩司若頭補佐(五代目山健組組長)が、昨秋に現場復帰して約1年が経った。
中田若頭補佐がシャバに戻ったのは、24年10月31日(当時は六代目山口組幹部)のこと。19年8月に発生した「弘道会系組員銃撃事件」において、実行犯の容疑がかかっていた中田若頭補佐に、神戸地裁が無罪(求刑=懲役20年)を言い渡した。山口組事情に詳しいジャーナリストが語る。
「中田若頭補佐は、初公判で『すべて間違っている。私は犯人ではありません』と語り、その後の被告人質問でも完全黙秘を貫きました。一方、検察側は犯行現場付近から市内各所の防犯カメラ映像をつなぎ合わせ、実行犯は中田若頭補佐であると主張。状況証拠も大量に提出しますが、いずれも客観性に欠ける、と判断され『別人である可能性は否定できない』と断じられました」
無罪を勝ち取った中田若頭補佐であったが、自身が不在の期間中、配下の組員たちの身は、常に激流にさらされていた。トップが逮捕勾留された翌20年7月、神戸山口組(井上邦雄組長)からの脱退騒動が勃発したのだ。
「勾留中の中田若頭補佐から脱退を表明する手紙が届けられました。結果的に親分の意思に従う直参衆が神戸山口組から独立。残った直参たちは井上組長の預かりとなり、一時は『山健組』を名乗るも、最終的に『神戸』側の『山健組』は消滅します」(ジャーナリスト)
そして「残留派」の山健組が消滅する直前、21年9月には五代目山健組が六代目山口組に電撃復帰を果たす。
これらはすべて中田若頭補佐の意思によるものだった。先日発行された山口組の機関紙「山口組新報」第33号の巻頭言で、中田若頭補佐はこの決断について次のように振り返っている。
〈突然絶縁者の組織となった山健組を、手前山本健一初代親分が心血を注いだ伝統ある山口組と云う、本来あるべき姿へ戻る事が相成り、早くも4年と云う月日が経とうとしています〉
分裂当初は神戸山口組の中核団体として、抗争の最前線で六代目山口組と相対していた山健組だが、合流後は敵対組織に対してその武力を発揮する。山健組と同時期に神戸山口組から脱退するも、六代目山口組には戻らなかった池田組(池田孝志組長)に対し、苛烈な攻撃を加えたのだ。
帰参から1年後の22年10月、関係施設への車両特攻などが立て続けに起こり、散髪中の池田組長を直接狙った襲撃事件が発生。同日夜には池田組長の自宅マンションの駐車場で、組が所有する車両への発砲事件も発生する。24年4月に、当時の池田組最高幹部の関係先に手榴弾を投げ込んだのも山健組系組員だった。六代目山口組に近い組織関係者が言う。
「司組長や髙山清司相談役は、山健組と袂を分かった分裂抗争下においても『山健組と弘道会が両輪となってこそ、組織の永続がある』という姿勢を変えなかったそうだ。それほど、田岡一雄三代目からの名跡であり、『山口組の保守本流』と称された山健組を評価していた。親分が社会不在にもかかわらず、残された組員たちがそれを、帰参後すぐに証明したと言っていいだろう」
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