社会
Posted on 2025年11月23日 18:00

奇跡の脱北起業家〈第7回〉なぜ彼女は「平壌冷麺」と海を渡ったのか(1)日本総領事館は「門前払い」

2025年11月23日 18:00

 北朝鮮を離れたヨンヒは韓国大使館のあるラオスを目指すが、その過程は「死」と隣り合わせだった。同じ脱北者との共同生活をへて、ソウルへ到着するも、そこには新たな苦しみが待ち受けていた。好評連載第7回は、手に汗握る奇跡の逃避行の全容をお伝えする。

 ヨンヒの逃避行は奇跡の連続だった。命からがら国境の川、鴨緑江を越えたものの、中国は安住の地ではない。彼女の目的地は親族のいる日本。とりあえず長白から牧師とバスで瀋陽をめざした。ここに日本総領事館があるからだ。

「バスの後ろから3番目に座っていましたが、中国の公安が乗り込んできて身元チェックをする。牧師さんは韓国のパスポートを持っているけど、私はないからバレたら終わりでしょ。ドキドキしていたら、前の席にいたおばあちゃんが公安に勝手に荷物を開けられた、と大げんかになったんです。そのどさくさで私はチェックされず、セーフでした」

 着いたのは瀋陽の西塔だった。朝鮮族が多いところだ。牧師が日本総領事館に連絡してみるも脱北者の受け入れは難しいと事実上の門前払い。翌日、車で北京まで走り、日本大使館に電話をしたが、答えは同じ。

「第2の選択肢は韓国とアメリカでした。日本に近いから、いつか日本にも行けるだろうと韓国行きを選んだんです。幼いころから反米教育を受けていたのでアメリカは怖いというイメージがありました」

 極秘の逃避行ルートは東南アジアにある第三国、ラオス経由と決まった。北京で北朝鮮の会寧から脱北したという若いカップルと合流し、牧師も含めた4人で寝台列車に乗った。行き先は雲南省の中心都市・昆明である。

「また奇跡が起こるんです。通路で寝ずの番をしていた牧師さんが『公安がきたぞ』と知らせてくれ、私たちはベッドにもぐり、寝たふりをしました。もうだめだと観念しながら。ところが、前の客室までチェックしながら、戻っていったんです」

 列車はヨンヒを無事、昆明まで運んだ。次なる目的地はラオスとの国境、景洪だ。列車でも行けたのだが、国境が近づくにつれ、危険は増す。

「牧師さん、機転がきいてね。昆明で新車を買った景洪の人を見つけ、その納車を装ったんです。座席にビニールカバーがついたSUV車、業者の人が運転し、私たちは長距離タクシーに乗せてもらった感じでした。彼は私たちが脱北者だとは気づいていなかったんです」

 だが、運も尽きたか、景洪へ走る途中、公安に捕まる。夜の10時ごろ、あたりは真っ暗。警察でなく軍の公安らしい。

「銃を持っていました。運転手さんは朝までに納車しなければ、と訴えるんですが、聞いてもらえない。カップルは韓国人留学生だとうそをつくけど、通るわけない。いかにも北朝鮮の田舎者の身なりですから。運転手さんは車で待機させられ、私たち4人は留置場へほうり込まれる。『お金も24Kのネックレスもあげる』と言っても見逃してくれない。トイレには2人の監視人がついてきて、ドアも閉めてくれない。軍人は電話で上層部の指示をあおいでいる。北朝鮮に送り返されたら、拷問され、死刑になるかもしれない」

 まんじりともせず一夜をすごしたヨンヒ。もはやジタバタしてどうなるものでもない。

「アヘンは捨てたし、迎えの車がきたら、壁に頭をぶつけて死ぬか、車に飛び込んで死ぬか、死ぬことばかりを考えていました。そしてひたすら祈りました。聖書も読んだことのない私ですが、神さま、助けてください、ここで助かったら、一生、神さまを信じて生きていきますから、と。そうしたら不思議な現象が起きたんですよ。なにげなく留置場の窓から空をながめていると、明け方のまだらな雲が一瞬、十字架に見えたんです。そばにいた牧師さんもカップルも見えないと言ったんですが」

 午前8時、軍人が朝食だと伝えにくる。ご飯か麺かどちらだと聞く。

「麺を頼んだら、紙の器に入った太麺のうどんでした。おいしくない。これが私の最後の晩餐か‥‥」

 すっかり落ち込んでいたら、軍人があわてて戻ってくる。「ゾウバ(走吧)、ゾウバ」とせき立てる。

「中国語ができる牧師さんは、きょとんとしている。行け、と言っているらしい。いったい、どうなったのか、さっぱりわからない。お金も24Kのネックレスも返された。私たちが車に乗り込むと、なぜか穏やかに見送ってくれる。気をつけて、と。午前11時でした」

 またもや奇跡である。あの十字架が救ったのだろうか。

 景洪からは国際バスに乗り換え、ラオスの首都・ビエンチャンへ。牧師は飛行機で先回りした。

「私たち3人はバスの客席の下に隠れていました。スーツケースを収納するスペースの横です。3人が体をくっつけて座るのがやっとという狭さ。走るのは砂利道、地面はまる見えだし、ほこりまみれになるし、石ころも飛んでくる。落ちたら即死です。国境の検問所ではラオス語かな、知らない言葉が聞こえ、たくさんの靴が見える。見つからないように身を縮め、生きた心地がしませんでした。それから5、6時間くらい走ったでしょうか、ようやくビエンチャンにたどり着いたときは3人とも顔は灰色、鼻も口も砂だらけでした」

 ビエンチャンのバスターミナルには牧師と韓国から駆けつけた支援者が待っていた。バスからはい出てきたヨンヒは号泣し、抱き合ったが、この地も安全地帯といえない。ラオスは北朝鮮とは友好国であり、脱北ルートとしても認知されている。どこで監視の目が光っているかわからない。牧師は3人を素早くホテルに案内し、シャワーをすませたあと、韓国料理レストランで腹ごしらえした。

「トッポギとスンデ(韓国式の腸詰め)がおいしくて。タクシーで韓国大使館へ急ぎましたが、玄関に到着したら、すぐ扉が開く。あらかじめ連絡してあったからですが、なんのチェックもない。あっけないくらいスムースに入れたんです」

鈴木琢磨(すずき・たくま)ジャーナリスト。毎日新聞客員編集委員。テレビ・コメンテーター。1959年、滋賀県生まれ。大阪外国語大学朝鮮語学科卒。礒𥔎敦仁編著「北朝鮮を解剖する」(慶應義塾大学出版会)で金正恩小説を論じている。金正日の料理人だった藤本健二著「引き裂かれた約束」(講談社)の聞き手もつとめた。

写真/初沢亜利

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