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Posted on 2026年09月05日 18:00

渡辺久信 自由契約を受け入れてから急転直下の現役復帰。台湾で芽生えた北京五輪での打倒日本の想い/プロ野球「俺が引退を決意した」瞬間

2026年09月05日 18:00

 1983年にドラフト1位で西武に入団した渡辺久信(61)は、在籍14年で124勝をマーク。レオのエースとして活躍したが、その後はヤクルト、台湾球界と渡り歩いている。現役引退後には編成トップとして選手に戦力外通告をする立場も経験した、波瀾万丈の野球人生を振り返る。

 渡辺は西武時代に5度の2桁勝利を挙げた。うち3回(86、88、90年)は最多勝のタイトルを獲得している。常勝軍団の中心選手だったが、後年は速球派から軟投派へのシフトチェンジが思うようにいかなかった。1軍登板が12試合に終わった97年オフ、最初の戦力外通告を受けている。

「若手も台頭してきて、チャンスも少なくなっていたんだよね。当時は選手会からNPBに『トレード志願』ができた時代で、2年間ぐらい申請していた。球団に呼ばれたのはもう11月末で、オフに入る1〜2日前だったから、『トレードが決まったな』と思って球団事務所に行ったら、なんと自由契約。球団からはマスコミの仕事を紹介するとの話もあったけど、まだ33歳で体も元気だから『もうちょっとやりてえな』と思って『自分で(移籍先を)探します』と伝えたよ。でも西武を去る時点で『次を最後にしよう』と心に決めていました」

 のちに聞かされた話では、実は水面下で横浜(現DeNA)と1対2の交換トレードが進行していたが、直前で流れたことから遅い時期の通達となったようだ。

「数球団から電話をもらった。でも私も家内も関東出身で、西寄りの球団へ移籍するのは躊躇したんだよね。その中で在京セ・リーグのヤクルトは、野村克也さんがベテランを蘇らせる“ノムラ再生工場”で注目されていて、その下でやってみたいと入団を決めた」

 ヤクルトでは1勝しか挙げられず、大半は2軍暮らしだった。それでも、新たな未来を切り開く契機になったようだ。

「ヤクルト時代は指導者の言うこともよく聞いて、視野が広がった。2軍では山部太とか山本樹とか、若手が話を聞きに来てくれて、初めて指導者に興味を持つようになったんだよね。野村さんの下でやって、いろんな裏付けに基づいてID野球があるんだということがわかったし、実際に私も1年間、『野村ノート』を作成してみて、話自体は当たり前のことが多いけれど、それを伝えることが難しいのだと理解できた。今の選手であればデータ野球に慣れているでしょうが、当時は『理屈っぽい』と敬遠されがちなことだったからね」

 同年オフ、再び立場を追われることになった。

「まさか1年でクビになるとはね(笑)。野村さんも退任された時期で、球団も若手への切り替えや方針が変わったようでした。基本、体は元気だったけど、最後と決めた球団でやるだけやったので『もういいや』と」

 指導者への想いもあったが、古巣を含めオファーはなかった。解説者としての第2の人生が決まりかけていたが、急転直下、台湾の球団(嘉南勇士)から「日本人の指導者を探している」との話が舞い込んだのである。

「ちょうど東尾修さんたちと食事をしている時に連絡をもらって、内容を伝えたら『ナベ、行ったほうがいいんじゃないの? 外から野球を見るのも大事だけど、指導者を目指すなら現場にいたほうがいい』と。家族も『行ったほうがいいんじゃないの』と後押ししてくれたので、単身赴任で乗り込みましたよ」

 当初はコーチ契約だったが、春季キャンプに監督の鶴の一声で選手兼任が決定したのである。まさかの“現役復帰”だ。

「日本語の通訳がいなかったんだよ。『付けてくれ』って頼んでも、『金がない』って(笑)。身振り手振りで教えるしかないんだけど、限界がある。そうしたら『投げられるなら投げて、それを見せて教えてくれ』って言うんだから」

 コーチとして投手の練習メニューから起用、継投をこなす一方、現役投手としても1年目から18勝を挙げ、投手タイトルを総なめにした。それでも、苦労、努力は絶えなかった。

「選手の練習がすべて終わってからが自分の練習時間なんだけど、キャッチボールの相手もいないから、バンバン壁当てで肩を作った。2年目に家庭教師を雇って、語学の勉強もしたから、3年目には報道対応も含めて、すべて中国語で対応できるようになっていたよね。その最終年は基本、コーチに専念できて、4年目は他球団で監督の話もあったんだけど、ネックは今と違って日本球界の情報がとにかく入らなかったこと。この3年間、甲子園の優勝校すら知らなかったんだから(笑)。そもそもNPBで指導者になることが最終目標だったから、帰国を決断しました。日本球界のことがわからなくなったら、本末転倒だもんね。でも指導者としては、NPBですぐにやるより、若い時からの経験値が数倍稼げた3年間でした」

 渡辺はNPB時代同様、英雄扱いされた台湾でもセレモニーを行わずに“2度目の現役引退”となった。

 帰国後2年間は評論家としてネット裏から野球を学んだ。そして04年、西武の2軍投手コーチに就任した。

「まさか声がかかるとは思わなかった。当時は私の124勝が球団最多記録だったのに、引退試合も最後のあいさつもできなかったんだから。西武に思うところもあったよ。だって必死で中国語を覚えたのも、1つには08年の北京五輪で台湾や中国代表を率いて日本をやっつけて恩返ししたいって気持ちもあったぐらいだから。でも現場に戻るっていうのはタイミングが大事で、また西武から誘われて、今度は指導者として成り上がろうと思えたからね」

 08年、1軍監督初年度にリーグ優勝し、日本一も成し遂げた。6年間指揮を執ってBクラスは一度だけ。そして13年にシニアディレクター、19年からはGMとして、今度は選手に戦力外を伝える立場となった。

「整理対象選手って、まず2軍、1軍の首脳陣から候補者を挙げてもらって、編成がチェックしたうえで最終的に決める。毎秋の自由契約、引退勧告をする時期は本当に憂鬱だったよ。私が獲得に携わった選手にも伝えなきゃいけないんだから。選手も暗い表情で来るし、どういう言葉をかけようかと考えるよね。泣いてしまう選手もいた。気持ちはわかるよ。ベテラン選手の中には、ある程度、自分の意向で引退を決められるケースもあるけど、編成を経験して思ったのは、引き際は自分で考えてほしいなということ。戦力として貢献できていないのに、高額な年俸を払われる姿は若手も見ている。現役でも1年前には引退宣言した栗山巧や、おかわり(中村剛也)、炭谷銀仁朗は、あの年齢まで野球をやれているだけでホント幸せ者だよね」

 早く指導者に転じた分だけ、フロントを含めて長い期間、野球界に貢献した。

「野球人生とすればよかった。自分の中では一昨年オフに球団を離れたのが本当の意味での“引退”という感覚。解説はやっているけれど、野球界はもう引退した。思い残すことはないよ」

 このほど、地元・群馬で次世代アスリートと指導者を地域で育てるプロジェクト「GUNMA NEXT」が始動。サッカーJ3・ザスパ群馬のシニアアドバイザー兼プロジェクトの特別アドバイザーを拝命した。夢はまだまだ膨らむ。

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