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記事全文を読む→死んでも「アイツ」に勝ちたかった④ 松野明美(1)
92年、バルセロナ五輪を前にして、日本中が女子マラソンの最後の代表枠を争った2人のランナーに注目していた。陸連側の曖昧な選考基準に翻弄され、その後の競技人生は、まさに明暗を分けた2人。「私だったら金メダルを獲れた」と、今もきっぱりと語る松野明美が、当時の舞台裏から宿敵・有森裕子との18年ぶりの再会秘話までを語り尽した。
自分より遅い人が選ばれた
バルセロナオリンピックの女子マラソン中継の日、私はボロボロと涙を流しながらテレビの前にいましたね。レースを観ているようで観ていないという感じで、ただただ「私がこのコースを走っていたら‥‥」と、そればかりでした。
有森さんが(ロシアの)エゴロワさんとデッドヒートを繰り広げている時だって、「私なら絶対に抜かれない」と思ってましたよ。つい手を固く握りしめてしまい、何度も手のひらの汗をぬぐったことを、今もはっきりと覚えてます。
有森さんが銀メダルを獲得した時、私の中に込み上げてきたのは「おめでとう」ではなく、「悔しい!」という思いでした。私なら金メダルだったと、今でも言えます。勝負師であれば、当然の感情だと思います。
92年8月1日。あの日、バルセロナ五輪の選考に漏れた松野明美( 44 )は、次の大会に備えて、北海道で合宿中だった。ライバル・有森裕子(45)が日本女子陸上競技界において64年ぶりのメダリストに輝き、スポットライトを浴びていた。その光景を目の当たりにし、松野の心と体は、想像以上のダメージを受けたという。
現役時代、初めての体験でしたね。体は正直だった。ほんの5分間さえも走れないほどの状態が2カ月間も続いたんです。走り始めても、こんなに苦しい練習をして、ちゃんと結果も出してきたのに実らない‥‥と思うと、涙が出てきて(体が)止まってしまう。「私は何で選ばれなかったんだろう」と、報われなかった思いが募るというか、むなしいというか‥‥。
直接対決すれば、絶対に負けない自信がありました。なぜ、私よりもベストタイムの悪い人が選ばれたのか、今でもわからない。「有森さんはズルイよ」という気持ちが消えませんでした。
今もなお、松野の心に残る選考基準の不明瞭さ。当時、3人の代表枠のうち山下佐知子が91年世界陸上東京大会で準優勝し、内定。同じ大会で4位だった有森や前回ソウル五輪の1万㍍代表だった松野ら有力候補が、残り2枠を争う展開だった。2人は92年1月の国内選考レース「大阪国際マラソン」に照準を合わせていたが、有森が左足のケガで欠場し、直接対決は実現しなかった。この大会で松野は、優勝こそ小鴨由水に譲るも、当時の日本記録を更新。有森のベストを59秒も上回り、一躍、代表候補に名乗りを上げていた。一方の有森は、最後の選考レース「名古屋国際マラソン」を回避しつつ、出身地のローカル大会「おかやま県民健康マラソン」で自己新をマークして、好調をアピール。五輪本番を見据え、暑さと坂道に強い有森を推す声が高まり、山下と小鴨に続く残り1席は混迷を極めた。
私はスポーツなのだから正々堂々と決めたかったんです。大阪で2位だった時、選考されるか微妙なら3月の名古屋も出場するつもりでした。でも、監督や周囲が「大丈夫だよ」と言うので、それなら体を休め、名古屋でエネルギーを使うより練習に充てようと思ってました。
ところが、有森さんは名古屋を回避し、フルマラソンではないローカル大会に出場してアピール。それってズルくないですか。あんなにゴタゴタするならオープン参加で一緒に走りたかったですよ。監督に直訴しても出たかった。
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