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記事全文を読む→死んでも「アイツ」に勝ちたかった⑦ ピューマ渡久地 世界王者・ユーリに壮絶TKO負けの悔根(1)
とにかく対戦したかった。冷たそうな目つきをした、アイツをブッ飛ばしたかった。勝つ自信だってあったのだ。チャンスは遠回りしてやっと巡ってきたが、情念のボクサーが世界王者になることはなかった。ピューマ渡久地が抱く、ユーリ・アルバチャコフへの思いは16年たった今も変わらない。
ユーリの目つきが嫌だった
話をしたことがないので人間的にはどうか知らないけれど、まずあのユーリの冷たそうな目つきが嫌だったんですよ。理屈とかそういうのではなく、本能的に好きにはなれなかったですね。それは16年たった今も変わりません。
90年代、日本のボクシング界はかつてない隆盛期を迎えていた。個性豊かな世界王者が数多く誕生し、リングを彩っていたのだ。中でも、絶大な人気と知名度を誇った辰吉丈一郎と、若い女性層を中心に支持された鬼塚勝也がブームを牽引していた。
一方で、結果として世界王座をつかむことはできなかったが、チャンピョンと同等の力量と人気を誇ったボクサーもいた。辰吉、鬼塚と並んで「平成の三羽ガラス」と称された、ピューマ渡久地(42)=本名・渡久地隆人=である。渡久地が出場するイベントは会場が満員で沸き返り、期待にたがわず試合も常にスリリング。デビューから10連続KO勝ちで日本フライ級チャンピオンになるなど、そのパワーはまさに世界級だった。
そして、グローバル化が進んだ時代でもあった。ソ連の解体に伴い、同国のアマチュア選手たちが日本に活躍の場を求めてやってきたのだ。ユーリ・アルバチャコフ(45)=ロシア=も、その中の1人だった。
日本チャンピオンの渡久地に元アマチュア世界選手権優勝者のユーリが挑戦するという夢のカードが組まれたのは、91年3月21日。しかし、対決まで2カ月を切った時点で試合はキャンセルになってしまった。渡久地がケガをしたのだ。
もう時効だからホントのことを話してもいいでしょう。ユーリ戦の前の試合(日本王座2度目の防衛戦)直前に街でケンカして、指の骨を折ってしまったんですよ。
その直後の2度目の防衛戦は骨折したまま戦いましたが、全然ダメでしたね(判定勝ち)。でも、次のユーリにはどうしても負けたくなかった。だから沖縄で走り込みのキャンプまでやったんです。ところが、今度は足を捻挫してしまった。
当時はジムとうまくいっていなかったこともあって連絡をしなかったら、「渡久地が失踪」とか「ユーリから逃げた」とか書かれてしまった。連絡をしなかった僕も悪いんだけど、試合はキャンセルされてしまいました。逃げた? そんなわけないでしょう!
ボクはユーリをぶっ飛ばしたくてしかたなかったんだから。もちろん勝つ自信もあったし、だから逃げるわけがないでしょう。
不始末の責任を取り、渡久地が保持していた日本フライ級王座は、ジムからJBC(日本ボクシング・コミッション)に返上された。
渡久地にとってそれ以上に痛かったのは、JBCから無期限の試合出場停止というきわめて重い処分を科されたことだった。そのため、“世界チャンピオン候補”は21歳から23歳までの約2年半を無為に過ごすことになってしまったのだ。
最初は、ふてくされていましたよ。ボクシングができないんですから。このまま永久にやれないのかなって。でも、その間もずっとユーリとは戦いたいと思っていたんです。ユーリのことを忘れたことはありませんでしたね。20代前半の大事な時期ですから毎日ウズウズしていましたよ。
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