2005年11月14日、株式会社ユークスに買収されて同社の子会社になった新日本プロレスは、年明け早々に大激震に見舞われた。06年1月10日から始まった契約更改で、退団者が続出したのである。ユークス新体制への不安と疑念、一度は退団した長州力の...
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2005年2月20日、新日本プロレスの両国国技館大会で実現した、新日本のIWGPヘビー級王者・天山広吉と全日本プロレスの三冠ヘビー級王者・小島聡による、史上初の2大メジャー団体のベルトを懸けたダブルタイトルマッチは、残り時間11秒の59分4...
記事全文を読む→1990年代半ばから続く格闘技ブームの中、2004年1月4日の新日本プロレスの東京ドームは、全日本プロレスの社長兼エースの武藤敬司が2年ぶりに古巣登場、1年2カ月前に退団してWJプロレス旗揚げに参戦するもフリーになった佐々木健介、パンクラス...
記事全文を読む→2003年の日本プロレス界は、全日本プロレス社長の武藤敬司と新日本プロレス現場監督の蝶野正洋のまさかの絶縁によって、全日本&橋本真也率いるZERO‒ONE連合軍と、新日本&三沢光晴率いるプロレスリング・ノア連合軍の2大勢力の戦争になった。し...
記事全文を読む→全日本プロレスの社長に就任した武藤敬司が2002年11月17日に横浜アリーナで開催した「WRESTLE‒1」にZERO‒ONEの社長兼エース・橋本真也が友情出場、新日本プロレスの現場監督・蝶野正洋がフジテレビ中継のゲスト解説を務めたことで「...
記事全文を読む→2002年10月1日、武藤敬司が全日本プロレスの社長に就任したことで、日本プロレス界再編の気運が高まった。当時、新日本プロレスでは蝶野正洋が取締役になって現場監督として手腕を振るい、ZERO‒ONEの社長は橋本真也。かつての闘魂三銃士がそれ...
記事全文を読む→2000年秋にスタートした新日本プロレスVS全日本プロレスは、01年1月28日の東京ドームにおいて開催されたジャイアント馬場三回忌追悼興行「王道新世紀2001」で、対抗戦に初出陣した武藤敬司によって空気が変わった。対抗戦はケンカモードで殺伐...
記事全文を読む→2000年6月の三沢光晴らの大量離脱によって、所属選手が川田利明と渕正信の2人になってしまった全日本プロレス。それでも馬場元子オーナーが看板を下ろさなかったのは「馬場さんの三回忌までは」という意地だった。その後、天龍源一郎の10年ぶりの復帰...
記事全文を読む→1980年代前半、プロレス界に大ブームを巻き起こした初代タイガーマスク(佐山聡)のライバルとして「虎ハンター」の異名を取った小林邦昭さんが、9月9日に亡くなった。享年68歳。ここ数カ月はガンで闘病生活を送っていたという。そんな小林さんとライ...
記事全文を読む→新日本プロレスVS全日本プロレスの対抗戦が行われた、2000年10月9日の東京ドームは超満員札止め6万4000人を動員した。メインイベントは佐々木健介VS川田利明。IWGPヘビー級王者であり、夏の「G1クライマックス」に優勝した健介がまさに...
記事全文を読む→天龍源一郎の10年ぶり電撃復帰という起死回生策で、2000年6月の三沢光晴らの選手・スタッフ大量離脱の危機を乗り切った全日本プロレスだが、隆盛を取り戻すためにはさらなる起爆剤が必要だった。それは川田利明が全日本再出発の会見で口にした、新日本...
記事全文を読む→テリーメキシコから帰国した時に、全日から新日本プロレスに移籍しましたよね。あれはどういう経緯だったんですか。越中もう2年もメキシコにいましたから、そろそろアメリカ本土で試合をやってみたかったんです。それが馬場さんにも伝わっていたはずなのです...
記事全文を読む→2000年6月の三沢光晴をはじめとする選手、スタッフ30名の大量離脱で存亡の危機に立たされた全日本プロレスだが、7月1日のディファ有明で予定通りに「サマー・アクション・シリーズ」を開幕させることができた。それでも危機的状況は変わらない。旗揚...
記事全文を読む→2000年6月に勃発した全日本プロレスの分裂騒動。6月16日、三沢光晴は練習生(杉浦貴)、レフェリーのマイティ井上、現場スタッフを含む30人で新団体(プロレスリング・ノア)の設立を発表。その3日後の19日には川田利明と渕正信の2人が神奈川県...
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