30歳、40歳、50歳……年齢の節目とともに意識せざるを得ないのが“男性特有の悩み”。いつまでもオトコらしく自信を持ちたいと考える男性は敏感になって当たり前だが、ここで朗報が!「テストインクリース」という国内で初めて採用された成...
記事全文を読む→歴代総理の胆力「山本権兵衛」(2)妻は品川遊郭出身の元遊女
その後、山本は予備役に編入され、政治活動から離れていたが、約10年後、時の総理大臣の加藤友三郎が死去、お鉢が回ってきての第二次内閣の組織ということだった。
しかし、ここでも山本はその力量の高さに比べ、「運」のなさにつきまとわれた感があった。巡り合わせの悪さである。折からの関東大震災に見舞われ、治安悪化から戒厳令の施行を余儀なくされ、政治反動の雰囲気をかもしてしまった。ために政党の協力を得られずという苦境の中、「摂政」だった裕仁皇太子(のちの昭和天皇)が狙撃されるという「虎ノ門事件」も起こり、その責任を取って総辞職を余儀なくされたということだった。第二次政権はわずか4カ月で終わったのである。
その山本の私生活はと言えば、総理在任中でもじつに質素なものであった。床の上げ下げも自分でやった。靴下や衣服のほころびも、器用に針を操って自分で縫った。また、酒席に出ることは極力避け、政治家として派閥、子分をつくり、それをバックに「力の政治」に走るタイプでなかったことを実践した格好だった。
特筆すべきは、妻・登喜子が品川の遊郭の元遊女だったことだった。時に山本、ドイツ軍艦で世界を回って帰国して間がない22歳である。山本は新潟出身で売られたばかりのこの若い女性に一目惚れ、強引に足抜けさせ、身請けしたということであった。男気にも富んだ人物だったのである。
山本はドイツ軍艦に乗船中、艦長のグラフ・モンツから言われたことがあった。「妻を敬うことは一家に秩序と平和をもたらす」と。山本はこれを心に刻み、この妻や家族を、大変に大事にした。夫婦仲は極めてよく、愛妾を抱えるなどの話は全く無縁であった。昭和8(1933)年、登喜子が没すると、山本はそのあとを追うように、その年12月に死去したのだった。
「維新の第2世代」として台頭、大正期にその明治国家の修正にチャレンジした男の“未完の死”であった。
■山本権兵衛の略歴
嘉永5年(1852)10月15日、薩摩(鹿児島県)加治屋町(かじやちょう)生まれ。山県、伊藤、桂内閣で海相。海軍大将を経て、第一次、第二次内閣を組織したが、ともに、シーメンス事件、虎ノ門事件により総辞職。総理就任時60歳。昭和8年(1933)12月8日、81歳で死去。
総理大臣歴:第16代1913年2月20日~1914年4月16日、第22代1923年9月2日~1924年1月7日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。
アサ芸チョイス
二所ノ関親方(元横綱・稀勢の里)と赤ヘル戦士。大相撲とプロ野球を横断するこの「異色の組み合わせ」に沸き立つのも仕方がなかろう。それは広島カープ前監督の佐々岡真司氏が10月27日に投稿した、インスタグラムのショート動画だった。シンガーソングラ...
記事全文を読む→プロ野球開幕を前に、セ・パ12球団の順位予想が出揃っているが、際立つのは低迷が続く中日ドラゴンズへの高評価だ。OBの岩瀬仁紀氏は早くも昨年末の時点で2位に推し、「実は優勝にするか迷ったくらい」と語る。元監督の森繁和氏にいたっては、開幕前日に...
記事全文を読む→今後は大好きな「タレント業」に全振りすることになるのだろうか。スピードスケート女子金メダリストの髙木菜那が、4月から情報バラエティー番組「ラヴィット!」(TBS系)に曜日レギュラー出演する。開始当初の「ラヴィット!」は評判がすこぶる悪かった...
記事全文を読む→

