9月に入り、スーパーの鮮魚コーナーや赤ちょうちんの店先に「新サンマ」の文字が並び始め、秋の味覚への期待が高まる季節となった。だが近年は地球温暖化や海水温の上昇などにより、記録的な不漁が常態化。かつての庶民の魚はすっかり「高嶺の花」と化しつつ...
記事全文を読む→我が青春の週刊少年ジャンプ(12)創刊当時は10万5000部だった
今でこそ「週刊少年ジャンプ」は少年漫画誌の代表格のイメージだが、創刊当初は後発もいいところ。先発少年誌に有名漫画家はすでに囲われた格好で、やむなく新人重視主義をとらざるをえなかった。しかし、この点こそが飛躍の原動力となったという当時の「激動の日々」を、創刊時の編集メンバーが語る。
鳥山明、江口寿史、原哲夫、宮下あきら‥‥本連載で取り上げてきた作家たちもそうだが、少年ジャンプの特徴の一つに「ジャンプでデビューした作家によって誌面が構成されている」という点がある。
ジャンプから他誌へと活躍の場を広げていく漫画家は多いが、その逆はほとんど例がない。ジャンプが「純血主義」と言われるゆえんだ。
こうした新人の起用力、発掘力が少年ジャンプを少年漫画誌の王者へ押し上げていく原動力だったのは間違いないが、実は同誌が新人に力を注いだのは、創刊当時の事情がある。
1968年、ジャンプ創刊の年に集英社に入社し、創刊直後から同誌に関わった編集者・角南攻はこう振り返る。
「当時は、ちょうど月刊少年誌が終わっていく時代でね。『鉄腕アトム』や『鉄人28号』を生んだ雑誌『少年』が休刊。『赤胴鈴之助』や『黄金バット』の『少年画報』も斜陽に入っていた。一方で、59年に創刊された『少年サンデー』や『少年マガジン』という週刊誌が勢いづいていた。そんな頃に『少年ジャンプ』は月2回刊として創刊するんだけど、もう他社に売れっ子が囲い込まれちゃっててね。石ノ森(章太郎)さんとか当時の大家にも原稿をお願いに行ったんだけど、創刊のご祝儀的に3回くらいなら描けるけど、連載は無理だと断られてね。既存の大作家に相手にしてもらえなかったから、新人ばっかりでやることになったんだよ」
創刊当時の部数は10万5000部。今でこそ漫画の最大手である集英社だが、当時はまだまだ規模が小さかった。競合誌のプレッシャーに加え、予算も潤沢ではなかった。新人起用は、そんな悪条件の中で出発したジャンプの苦肉の策だったのだ。
とはいえ、無名の新創刊誌にいきなり新人が売り込みに来るわけはない。やはり少年ジャンプ創刊メンバーの一人であり、のちに3代目編集長となる西村繁男が言う。
「最初は(少年ジャンプの前身となった)『少年ブック』でつきあいのあった作家さんのアシスタントから新人を探してデビューさせていった。その後、新人漫画賞を設けて、誌面でも募集するようになってね。だんだん『わりと新人が載る雑誌だ』というのが知られるようになって、原稿の持ち込みが増えるようになった。編集者もいい新人を見つけて担当としてヒット作を生みたいもんだから、新人が来そうな時間を狙って会社にいるようになってね(笑)。朝早くはまず来ないから、午後から夕方にかけてなるべく席にいて、持ち込みが来たら我先にと対応してたよ」
編集部内でも新人の奪い合いになるほどの熱気が、のちのジャンプの飛躍を作っていったのだ。
アサ芸チョイス
地上からは想像もつかない深海で、半世紀前に投棄された「核のゴミ」が静かに朽ち果てている――。米メディア「The Week」電子版が、そんな背筋が寒くなるようなニュースを報じた。フランス沿岸から約1000キロ離れた北東大西洋海域の水深約470...
記事全文を読む→東京都港区で8月に行われた「麻布十番納涼まつり」で、屋台の「冷やし蟹ラーメン」を食べた78人が下痢や嘔吐などの症状を訴え、3人が入院した問題で、新たな衝撃事実が判明した。東京都と港区は発症者31人と従業員2人の便からサルモネラ属菌が検出され...
記事全文を読む→アメリカ・アイダホ州の一部地域では、畑の土を外へ持ち出さないよう、厳しい移動制限が敷かれている。農機具も土を完全に落とさなければ、「発生地域」の外へは出せない。そこまでして封じ込めている相手が、肉眼ではまず見えない「線虫」だ。名前は「ジャガ...
記事全文を読む→
