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記事全文を読む→日本レコード大賞 炎の四番勝負!<第2回>「1978年~沢田研二VSピンクレディー~」(1)
ただ歌うだけではない。どんな衣装で、どんな振付けで、どんな世界観を見せるのか──。日本の音楽史上、その命題に最も真剣に取り組んだのが1978年の「ジュリー」と「ピンク」だろう。史上初の2連覇を狙う沢田研二か? 怪物的な売上げを誇るピンク・レディーか? 戦いは真っ赤な炎として燃えさかった。
視聴率50.8%──日本レコード大賞の歴代最高は、77年12月31日に記録された。受賞曲は沢田研二の「勝手にしやがれ」で、華麗なステージングは語り草となっている。
「サビの『♪アア アアアアアア アア』に合わせて会場中が手を広げる。まるで稲穂が揺れているみたいで壮観でしたね」
森本精人は沢田がソロに転向した71年から83年までチーフマネジャーを務めた。グループサウンズ全盛期に「ザ・タイガース」のボーカルとして頂点を極めた沢田はソロ転身後、日々、自分に言い聞かせていた。
「俺は1人でもタイガースを越えてみせる!」
順調にヒットを重ねた沢田は、72年に「許されない愛」でレコード大賞の歌唱賞に、そして73年には「危険なふたり」で日本歌謡大賞の栄冠に輝く。森本は、ようやく沢田がソロとしてタイガースを乗り越えたと思った。
ただし、同じ年のレコ大では「大衆賞」に回り、大賞への挑戦権である「歌唱賞」からは漏れている。
また75年には「時の過ぎゆくままに」が90万枚を売り、賞レースの本命に躍り出たのだが──、
「パリでレコーディングをしていたら、渡辺晋社長から『すぐに帰って来い』との指令。社長は『歌謡大賞を獲らせるから』って確約してくれたんですよ」
だが、実際には1票差で布施明の「シクラメンのかほり」に凱歌が上がる。布施も沢田と同じ渡辺プロに所属しており、いかに強大な“帝国”であったか、また内部調整が困難であったかを物語る一件となった。
翌76年の沢田は、新幹線で「いもジュリー」と吐き捨てた見知らぬ男に殴りかかり、一時的に謹慎を強いられる。NHKなどが沢田の出演を見合わせるが、レコ大中継を立ち上げたTBSの砂田実チーフプロデューサー(当時)は、敢然とコメントした。
「今のところ出演を拒否するつもりもない」
あれから37年が経つが、あらためて砂田に沢田という存在を聞いてみた。
「僕は演歌よりポップス派だけど、中でも沢田研二という人は画面から美しさが伝わる本物のスター。僕はTBSを辞めた後にナベプロに籍を置いたこともあったけど、驚いたのは彼が渋谷公会堂でのコンサートを終えた直後。近くのホテルの部屋に入ったら、すぐに電卓を取り出したんだ」
それは自身の仕事に対する厳しいチェックを意味しており、スタッフにも、時には観客にも容赦しない。
そして巻き返しを図る77年、あの傑作「勝手にしやがれ」が誕生する。森本はイントロを聴いた瞬間に「大ヒット間違いなし!」と確信し、そのままレコード大賞まで駆け抜けた。
壇上にはGS時代からのライバル・萩原健一が祝福に訪れ、中継に花を添えた。森本は終演後に「おめでとう」と告げると、沢田は声を荒らげる。
「バカヤロー! 喜んでないでお前は次の年のことを考えろ。てっぺん獲った翌年がダメってジンクスにはなりたくないんだよ」
誰もやったことのない「連覇」を狙う。やがて沢田は、常に「1等賞」というフレーズを公言するようになった──。
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