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記事全文を読む→テリー伊藤対談「林家木久扇」(3)先月の自分自身がライバルなんです
テリー たい平師匠から木久扇師匠のことをよく聞くんですけど、師匠は「僕のライバルは常に先月の収入を超えることだ」って言ってるそうですね。
木久扇 そうそう。先月の月収がライバル。先月の倍ぐらいを目標に。
テリー 「先月の自分自身を乗り越える」ってことですよね。すごいことですね。いつ頃からその目標を持つようになったんですか。
木久扇 僕は日本橋の雑貨問屋のせがれですから、小さい時からソロバンの音を聞いていて。父が「売り上げ、売り上げ」ってよく言ってましたんで「人間って売り上げるもんなんだ」って思っていたんです。だから成人してこの職業になっても、昨日より今日、今日より明日っていう感覚が自然とできましてね。
テリー ご実家は豊かだったんでしょう。
木久扇 いや、父と母が離婚しまして、母子家庭なんです。小学校4年の時から新聞配達をやって、それでうちに1500円入れてましたから。高校の時まで学費は自分で稼いで、自分で食べていたんです。
テリー どうして落語家になろうと思ったんですか。
木久扇 日本橋・人形町の隣の久松町の生まれで、5~6歳からおばあちゃんに連れられてしょっちゅう明治座や末広亭に行っていたんです。で、落語を覚えちゃって、学校の休み時間に(三遊亭)金馬師匠や何かのマネをすると笑ってもらえるんですよね。それでウケることの快感を覚えて。
テリー 修業時代の、あまりお金を稼げない頃はどうしていたんですか。
木久扇 でも頭を使いましてね。上野の鈴本(演芸場)で前座働きをしてますでしょう。そうすると近所に「ボーナス」っていうキャバレーがあったんですよ。兄弟子がそこの司会の仕事を紹介してくれて、間の講談の「本牧亭」という席に兄弟子の紺の服と蝶ネクタイが置いてありまして、そこで着物から着替えて、司会に行ってたんです。
テリー アルバイトをしていたんだ。
木久扇 当時はショータイムにヌードがありまして、メリー松原さんとかの裸が見られたんですよ。司会はショーの間の15分くらいで終わっちゃうから、また楽屋に戻って働いて。
テリー 知らん顔をして。
木久扇 途中でいないから、その分また楽屋ですごく働いて「前からいたんだ」っていうような雰囲気で。さらにまた2部のショーも司会をしに行って、1日5000円稼いでたんです。
テリー 当時の5000円って、けっこうな額ですよ。その後65年に二つ目に昇進して、69年には「笑点」のレギュラーになってるから、エリート街道ですよね。
木久扇 それには下地がありましてね。楽屋働きをしている時、気が利くっていうんで立川談志師匠にずいぶん気に入られて、カバン持ちをやっていたんです。
テリー ああ、なるほど。
木久扇 「笑点」をこしらえたもとは立川談志さんですから「お前、小遣いがいるのか」って言って、当時のプロデューサーさんを紹介してくれまして。初めはテレビのパネルを描く仕事をやらしてくれたんです。
テリー へえー!
木久扇 1枚3500円ですかね。それを5枚とか6枚分頼まれるんですけど、僕は金がないから、いつも10枚描いていって「いや、こんなにいらない」って。
テリー 「3万5000円になっちゃうじゃないか」って。
木久扇 そうそう(笑)。
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