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記事全文を読む→実録・1万2000ページで読み解く「昭和天皇」激動の87年生涯-知られざる“喜怒哀楽”篇-(2)
皇太子となって9年が過ぎた21年3月3日からは欧州を訪問されている。冒頭のエッフェル塔の見学はこの時のものだが、イギリスのジョージ5世との出会いや、パリでは初めての地下鉄乗車を経験される。この経験が貴重であると評するのは、国際政治学者の藤井厳喜氏だ。
「皇室は日本でいちばんヨーロッパ化したファミリーと言えます。向こうの王族とつきあっていかなければならないのですから。そういう意味でも進歩的だと思います。周囲にも寛容です」
第一次世界大戦の古戦場の視察ではのちの戦争観につながる感想を漏らす。
〈戦争というものは実に悲惨なものだ〉
欧州訪問から帰国した2カ月後、昭和天皇に大きな転機が訪れた。大正天皇の病状悪化により摂政に就かれるのだ。26年12月25日、大正天皇崩御により、元号は昭和に変わり、激動の時代へと突入していくのである。これまでも“昭和天皇は平和愛好者だった”とされることが多かったが、日米開戦の前後には開戦ありきで事が進む事態に怒りの感情を表されることも多くなっている。開戦を3カ月後に控えた41年9月5日の御前会議では、軍部に対して厳しく詰問する様子が描かれているのだ。
〈南方作戦は約五箇月にて終了の見込みである旨を奉答するも、天皇は納得されず〉
〈支那の奥地が広大であること等につき釈明するや、天皇は支那の奥地広しというも、太平洋はさらに広し、作戦終了見込みを約五箇月とする根拠如何と論難され、強き御言葉を以て参謀総長を御叱責になる〉
この頃、御用理髪師に髪を切ってもらった折、椅子に座ったまま眠ってしまうほど疲労していた。
「昭和の時代に入ると、重臣はいるのですが、元勲はいなくなります。本音で相談する人たちがいなくなっているわけです。『実録』では昭和16年開戦に向かって孤立化していく天皇の苦悩というのがよく表れています。天皇の御意志に従えば対英米不戦であり、対ソ連でなければならなかった。そうした人たちとのアクセスも断たれてしまったのです」(藤井氏)
大戦の間、昭和天皇の気持ちをやわらげたのは、映画だった。日米開戦の41年には実に150本以上の映画を、42年4月にはディズニー映画「ミッキーの捕鯨船」を見ている。
45年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し敗戦。連合国軍が進駐し11月30日には占領軍の命令に従い日本軍は解散させられた。
〈落涙され、陸軍の歴史につき御感懐を述べられ〉
天皇は、平和愛好者である一方、独立国家の軍隊が解散させられるということの意味を痛いほど実感されていたのであろう。
敗戦後、天皇は足かけ8年半、総移動距離3万3000キロにも及ぶ全国巡幸を始められた。開戦させた責任から石持て追われるのではないか──そんな危惧をよそに国民は天皇の巡幸を熱烈に歓迎した。労働者や農民、病人に至るまで幅広い国民と交流された天皇のお顔は、それまで国民にほとんど見せることのなかった笑顔だった。
皇太子が美智子妃とご結婚された折には、元皇族や家族を40人余り集められ、こう述べている。
〈今後も皇太子・同妃に対し格別の支援が寄せられることを希望する〉
晩年にはガンと闘いながらも公務をこなされた昭和天皇。88年8月15日には、ふらつく足取りで最後の全国戦没者追悼式に出席された。翌年1月7日に崩御される最後の最後まで天皇が弱音を吐かれることはなかったという──。
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