41歳の新人監督・川上哲治が、巨人の野手陣に多摩川球場での練習を命じた。外は横なぐりの激しい雨だった。
1961年10月28日、巨人対南海(現ソフトバンク)の日本シリーズ第4戦は、後楽園球場で行われる予定だった。だが、試合は雨天中止。このシリーズ4度目であり、異例の新記録だった。
南海を率いるのは鶴岡一人である。59年日本一の立役者・杉浦忠は右腕の血行障害で戦列を離れていた。
川上は言った。
「いちばん怖いのは気の緩みだ。気が緩めば、体もなまる。ペナントレースならこんなことはしない。なにせ後のない試合だからね」
川上は2軍の武宮敏明に電話で手伝いを頼んだ。武宮は「この土砂降りの中でどうやって練習するんだ」と訝ったが、川上の答えは「とにかく練習するんだ」。
投手陣は雨天ピッチング場での練習となった。
前年、巨人の指揮を11年間執った水原茂がユニホームを脱いだ。優勝は8回を数えた名監督である。
しかし60年は、ライバル監督の三原脩が率いる大洋(現DeNA)の前に2位に終わった。リーグ連覇も「5」で途切れ、責任を取って辞任した。
ヘッド兼打撃コーチだった、川上が水原からバトンを受け取る。
同年、巨人は米国ベロビーチでキャンプを張るなど意欲的にスタートした。ペナントレースは一進一退を繰り返し、最後は引き分けの差で中日を退けて、新人監督は宙に舞った。
巨人は鶴岡の待つ大阪球場に乗り込んだ。21日は雨で流れて、1日遅れの22日から始まった。
巨 0 0 0 0 0 0 0 0 0=0
南 0 2 0 1 1 1 1 0 ×=6
エースのジョー・スタンカをまったく打てずに、3安打で完封された。野村克也を中心とした強力打線に、巨人投手陣は本塁打攻勢を浴びて完敗した。
巨人はこの時点で、日本シリーズ9連敗となった。
58年 対西鉄 〇〇〇●●●●
59年 対南海 ●●●●
23日も雨で順延となった。巨人は翌24日の第2戦で、連敗を9で止めた。
巨人は3回から南海投手陣を攻めて、小刻みに加点。8回にダメ押しの2点を挙げた。中村稔が9回の反撃を抑えた。
巨 0 0 1 2 0 1 0 2 0=6
南 0 0 0 0 0 0 0 3 1=4
川上は23日、雨天練習を決行していた。25日の移動日も東京は雨だったが、多摩川に選手を集めた。
巨人は26日、後楽園での第3戦でスタンカをKOし、5対4で逃げ切った。
そして第4戦予定の27日、雨天順延となると選手をまた多摩川に集めた。翌28日も雨で順延となった。川上は4度目となる雨中練習を決行したのだった。
長嶋茂雄、王貞治、広岡達朗、坂崎一彦、国松彰、宮本敏雄、高林恒夫、藤尾茂、森昌彦(現・祇晶)らの主力たちは約2時間、全身ずぶ濡れになりながらバットを振り、外野フェンス沿いを走った。川上もジッとしていない。グラウンドに出て精力的にナインの動きを追った。
29日、運命の第4戦を迎えた。
南 0 1 0 0 0 0 0 0 2=3
巨 0 0 2 0 0 0 0 0 2=4
南海は9回表、広瀬叔功が逆転2点本塁打を放って3対2とした。巨人がその裏に無死から同点の走者を出すと、鶴岡はエースのスタンカを締めくくりに送った。
スタンカは簡単に2死を取ったが、失策と長嶋の内野安打で満塁となった。
打席には宮本が立った。スタンカは1‐2と追い込んだ。そして、勝負球のフォークが真ん中外角寄りに落ちた。
スタンカは両手を挙げて、野村は「よし、三振だ!」と叫んだ。
球審・円城寺満の判定はボールだった。
スタンカが円城寺に猛然と抗議し、野村も詰め寄った。判定は変わらない。
スタンカは意地になった。5球目、同じコースに投げた。宮本は予測したように右翼線にはじき返した。2者が帰った。巨人の劇的なサヨナラ勝ちだ。
顔を真っ赤にしたスタンカが円城寺に突進して倒し、南海の選手たちが囲んで殴る蹴るの暴行を加えた。
シリーズの分岐点となった。巨人は4勝2敗で制して、川上の1年目を日本一で飾った。
「円城寺 あれがボールか 秋の空」
読み人知らずの一句が「名句」として球史に残っている。
川上は初のシリーズをこう振り返った。
「南海は強かった。これで杉浦君がいたら勝てなかった。第1戦を失った後、翌日が雨で流れたので練習したが、シーズン末に不調だった宮本がよく当たったので、起用に踏み切ることができた」
宮本が第2戦以降は大活躍で、MVPを獲得した。雨天練習の成果だ。
川上は4度の雨天順延に対し、4度の雨天練習に踏み切った。新人監督である。無茶な指令である。ナインが猛反発する可能性があった。
実際、28日は巨人ナインの間で「ゆっくり休養を取って明日に備えるか」という雰囲気が漂っていたという。
だが川上には「これだけの練習をやったのだから、負けるはずがない」という自信を選手に植え付ける狙いがあった。自分の采配を信じ、妥協しない信念があった。
62年、64年は阪神に優勝を譲ったが、63年には再び日本一に輝いた。そして65年から73年まで前人未踏のⅤ9を達成した。
川上にとって、61年の初の日本一がその土台だったのだろう。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。