名越 トランプ大統領に接近したセイター以外にも、この本には多彩なスパイが登場します。前出のソ連崩壊につながる機密情報をフランスに流したベトロフも、世界を変えたスパイです。
春名 彼は実力はありましたが、エリートでないことに劣等感がありました。KGBの上司と衝突して、フランス時代の情報機関と接触を開始しました。
名越 そこで約4000ページに及ぶソ連の機密文書を渡してしまうんですね。
春名 その後も悲惨で、愛人とのトラブルから殺人を犯して刑務所に収監されます。そして、フランスへの情報漏洩が発覚して死刑が執行されました。
名越 元CIAのエイムズの話も衝撃的でした。よりによって、ロシアに潜伏するCIAのスパイの名前を金目当てでKGBに売ったんですから。死刑になってないんですか。
春名 判決は終身刑です。まだ服役しています。
名越 ヒラリー・クリントンに勝利した16年のアメリカ大統領選挙では、プーチン政権がサイバー攻撃や偽情報でトランプ陣営を支援しました。
春名 プーチンの元側近のプリゴジンが配下の女性スパイ2人を渡米させ、SNSのアカウントを米国人になりすまして作り、「ヒラリーはテロリストの味方」「トランプはテロリストを打倒する」といった一方的な情報を拡散させました。アカウントのアクセス数は1億を超えたそうです。
名越 結果、見事にトランプが勝利しました。プーチンはしてやったりでしょう。今や米露だけでなく、中国のスパイ活動も活発化しています。ですが日本では、逮捕の動きがありません。
春名 摘発されないだけで日本にもたくさんいます。
名越 そもそも日本にはスパイ防止法がないですからね。中国からのサイバー攻撃による情報漏洩も問題視されています。
春名 習近平の国家主席就任以後、中国はロシアに加勢して対米秘密工作を強化しています。米国へのハッカー攻撃で15年には2210万人、17年には1億4500万人の個人情報が大量に流出する事件が起きました。これにより、中国はCIAの関係者を含め、米国民の約半数の個人情報を掌握しているとの話です。
名越 今やインテリジェンスの時代で、米中露のスパイ工作は東アジアでも激しさを増していますね。
春名 これらの情報戦の行方を我々は注視する必要があります。
ゲスト:春名幹男(はるな・みきお)1946年京都市生まれ。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒。国際ジャーナリスト。共同通信社ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て、ワシントン支局長。07年退社。07~12年名古屋大学大学院教授・同特任教授。10~17年早稲田大学大学院客員教授。94年度ボーン・上田記念国際記者賞、04年度日本記者クラブ賞、21年度石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞受賞。
聞き手:名越健郎(なごし・けんろう)拓殖大学客員教授。1953年岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社。モスクワ支局長、ワシントン支局長、外信部長などを経て退職。拓殖大学海外事情研究所教授を経て現職。ロシアに精通し、ロシア政治ウオッチャーとして活躍する。著書に「独裁者プーチン」(文春新書)など。