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15歳ですでに身長195センチ、体重110キロ。堂々たる体格を武器に地元中学を卒業後、鳴り物入りで入門した立浪部屋から北尾光司が本名で初土俵を踏んだのは、1979年の春場所だった。
「末は大関、横綱、間違いなし」と大きな期待を寄せられるも、兄弟子との厳しい稽古ですぐに音を上げ、「故郷に帰らせていただきます」と言っては部屋を飛び出す。そんな「悪い癖」は治らなかった。
とはいえ、稀に見るこの逸材に、親方は面と向かって文句が言えず、腫れものにでも触るように育てたことで、わがままが助長。そんな北尾が3年半も幕下にとどまった後、関取に昇進したのは1984年初場所である。
ここからの快進撃は、ハンパではなかった。関取に昇進後、十両はわずか4場所で通過。同年秋場所で新入幕となり、2場所目には横綱・北の湖から初顔で金星を奪い取ったばかりか、北天佑、朝潮、琴風の3大関を破る破竹の勢い。最終的に8勝7敗ながら、殊勲賞を受賞した。
そして新入幕からわずか8場所で大関に昇進するという、超スピード出世となったのである。
横綱審議委員会による「稀に見る逸材で、大きな将来性がある」との高評価に加え、相撲協会の大鵬理事らからも「稽古で鍛えればダイヤモンドになれる」との声に後押しされ、「幕内優勝経験がない力士は横綱になれない」という慣習を覆した。
北尾は1986年9月、22歳11カ月で横綱に昇進。「双羽黒」へと四股名を変更した。だが「立場が人を作る」とはいかなかった。
昇進伝達式では「心技体の充実を心がけ、横綱の名に恥じぬよう、稽古に精進いたします」と口上を述べたものの、「心」の成長は難しく、1987年の秋巡業中には付け人6人が集団脱走する事件が勃発。
同年末には本人が部屋を脱走し、そのまま「(破門同然の)廃業」という前代未聞の事態になった。
発端となったのは、部屋の若い衆が親方に「横綱(双羽黒)が『あんなちゃんこが食えるか』と言っている」と言いつけ、親方と大喧嘩になったことだ。仲裁に入った女将を北尾が突き飛ばし、捨てゼリフを吐いて部屋を出て行ったと報じられた。
相撲協会の緊急理事会で廃業届の受理が正式決定した同年12月31日の午後、都内の通信社で記者会見に臨んだ北尾は「廃業決定には従う」と述べたものの、こう不満をブチまけたのである。
「私と師匠の考え方が食い違い、師匠にはついていけないと思った。幕下の頃から考え方が違うと感じていた。横綱である前に、私も人間。人間として親方を許せなかった」
「人間として許せない」とは穏やかではないが、相撲の世界で師匠といえば、親も同然。
「逆らった時点でもう、弁解の余地はなかった」
北尾はそう語ったものの、この発言が角界を大きく揺るがせたのは間違いない。
廃業後にはプロレスデビュー。横綱在位8場所は昭和以降、2番目の短さだが、優勝31回の千代の富士をして「もし双羽黒がいたら、こんなに優勝できなかった」と言わしめたのは事実。
もし北尾が真っ当な現役生活を送っていたならば、大相撲の歴史は大きく変わっていたかもしれない、大相撲ファンの中には今も、そんな声があるというが…。
(山川敦司)
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