社会
Posted on 2025年09月21日 18:00

奇跡の脱北起業家〈第1回〉なぜ彼女は「平壌冷麺」と海を渡ったのか(1)脱北4年後にソウルで開業

2025年09月21日 18:00

 千葉に行列のできる本場・平壌の味そのままの冷麺店がある。切り盛りするのは脱北女性だ。命を懸けた北朝鮮からの脱出、壮絶な人生の秘話を探っていくと、そこには女3代のドラマがあった。平壌冷麺と共に国境を越え、海を越えて起業した、若き女性の軌跡に迫る新連載!

 潮の匂いがする。海が近いのだ。ヨンヒはきょうも朝からキムチの仕込みに忙しい。東京湾岸道路へ続く国道14号(千葉街道)沿いに平壌冷麺専門店「ソルヌン」がオープンしたのは2024年3月22日のことだった。ヨンヒは命からがら北朝鮮を脱出した、いわゆる脱北者だ。そんな彼女が伝える本場・平壌の味─。メディアがこぞって紹介したから、行列店となるのにそう時間はかからなかった。だが、ヨンヒはキムチにとことんこだわる。

「冷麺はすごく自信あるけど、キムチの味がちゃんとしていないと一流の冷麺屋だって胸を張れないじゃないですか」

 中国との国境、濁流の鴨緑江をたったひとり越えたのは2015年、23歳のときだった。翌年、母と弟も脱北させ、2019年にソウルの高級タウン、江南エリアの瑞草区に「ソルヌン」1号店を開く。平壌の高麗ホテル仕込みといううたい文句だけでなく、豚、牛、鶏など5種の食材から丁寧にとった黄金のスープ、そばの実を殻ごと製粉した麺に食通がうなった。人気テレビ番組で取り上げられ、歌手のチョー・ヨンピルら芸能人、政治家にもファンがいる。

 ムン・ヨンヒ。漢字で文蓮姫と書く。彼女のルーツは韓国・済州島である。母方の祖母、姜道子は海女だった。海にもぐりアワビなどを捕った。1957年ごろ、生活の糧を求め、家族らと木造船に乗り、日本を目指すものの、台風で転覆する。乗っていた9人のうち助かったのは当時17歳、泳ぎのうまかった祖母だけ。祖母の母も幼い弟も亡くなった。なんとか日本の沿岸にたどりつくが、スパイだと疑われ、長崎県の大村収容所に収容されてしまう。韓国からの密航が相次いでいた時代だった。

「おばあちゃんが死ななかったのは奇跡ですよ。だって大荒れの玄界灘を10時間とか11時間、漂流していたって聞きました。収容所を出てからは、先に日本に渡った父を頼り、上京しますが、知り合った在日のおばさんと板橋でちっちゃな飲食店をやるんです。7席しかない。日本語も不自由、弟をなくし、さびしかったでしょうが、そのおばさんにかわいがってもらったそうです。稼がないと生きていけないですから、朝から晩まで働く、働く。とにかく働き者なんですよ、済州島の女はね。アハハ」

 しばらくして大阪出身の工場労働者、崔万勝と結婚する。幸せもあったが、日本社会からの差別のまなざしは強い。新婚生活を味わういとまもなく、1959年からの帰国事業で「地上の楽園」と喧伝されていた北朝鮮へ。ソウルで「ソルヌン」を切り盛りしている母、崔順玉は生後100日ほどだったらしい。料理自慢の祖母は帰国者が多く配置された黄海南道海州で早速、食堂を経営する。

「恩徳院食堂」「海州ピビンバ」「善女山食堂」‥‥。出す店、出す店みな繁盛する。冷麺も評判だった。看護大学を卒業して看護師をしていた母も手伝った。「ソルヌン」の看板には〈SINCE1977〉とある。そう、3代の味は海州で誕生したのだ。

鈴木琢磨(すずき・たくま)ジャーナリスト。毎日新聞客員編集委員。テレビ・コメンテーター。1959年、滋賀県生まれ。大阪外国語大学朝鮮語学科卒。礒𥔎敦仁編著「北朝鮮を解剖する」(慶應義塾大学出版会)で金正恩小説を論じている。金正日の料理人だった藤本健二著「引き裂かれた約束」(講談社)の聞き手もつとめた。

写真/初沢亜利

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