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ニューヨークでの調印式を終えたアリは、76年4月、5月に世界戦を戦い、防衛を重ねた。そして6月、プロレスのリングにも上がっている。
「WWWF(現WWE)のリングで、ゴリラ・モンスーン戦後にアリが乱入したんです。これはアメリカでビンス・マクマホン・シニアが新日本プロレスと組んで合同興行・クローズドサーキット(劇場などでの有料中継)を行うにあたっての、いわば番宣だったんです。その後の2戦も、来日直前のスパーリング、番宣のテイストでした」
プロの格闘家たちは、この光景を冷静に見ていた。
「組み付かれたら、ボクサーはレスラーの敵ではない。プロの目で見れば、それは明らかでした。だから結局は『ルール』がすべての焦点になるだろう、と業界の人間は皆わかっていたんです。表向きの熱狂とは別に、裏ではすでに『これはルール次第の試合になる』という冷静な計算が働いていました」
興味深いのは、アリのマネージャーとして帯同した往年の名レスラー、フレッド・ブラッシーの存在だ。
「ブラッシーがアリに付いたのは、猪木VSアリ戦のレフェリーを務めたジン・ラベールさんの母、アイリーン・イートンさんのアドバイスによるものだったんです。アイリーンさんはロサンゼルス地区の権勢を誇ったボクシングとプロレスのプロモーターでした。アリの激しいトークは、もともとプロレス仕込みの技術だったんです。アリがあれほど巧みに猪木への挑発トークを操れたのは、ブラッシーから直接手ほどきを受けていたからなんです」
リング上の駆け引きだけでなく、記者会見でのアリの「ビッグマウス」も、プロレス界の人脈と技術によって演出されていた。これもまた、猪木VSアリ戦が、単なる異種競技の激突ではなく、長年積み重ねられた「人と人の縁の結晶」であったことの証拠だ。
「アリという人間は、相手の文化を吸収する天才でもあったんだと思います。プロレスのトークをそのまま自分のスタイルに取り込んでしまう。ブラッシーから学んだものを、本番では自分のオリジナルのように使いこなしていた。あの人は本当にすごい役者ですよ」
76年6月16日、ついにアリが羽田空港に降り立つ。
当初、試合のルールは3分15ラウンド制、ボクサーはボクシングルール、レスラーはプロレスルールで正々堂々と戦う─いたってシンプルなものだった。しかし、そこからルールは猪木に不利なものへと改変されていった。
「ルール交渉の責任者は、NETの永里さんでした。交渉は試合当日の深夜2時まで及んだのです。早朝に日本武道館入りした私は、永里さんたち制作陣から信じられないルール説明を受けました。『ルールは中継で説明するな。解説者にも言うな』と」
異種格闘技戦という複雑な試合形式にもかかわらず、ルール説明は不可。前代未聞の要求だった。
「あんな無茶振りを受けたアナウンサーは、私くらいのものでしょうね。これはアリの商品価値とプライドを守るための、アリ陣営からの強い要求でした。でも猪木さんは、それを全部受け入れて試合に臨んだ。私は今でも、この時の猪木さんの潔さ、強さ、『プロレスの市民権を世間に認めさせる』という鉄の意志と情熱を忘れられません」
ファンとマスコミの熱狂の渦の中で進んでいた表舞台と、ルール交渉という水面下の攻防─この極端な対比が、世紀の一戦の本質を物語るのだ。
舟橋慶一(ふなばし・けいいち)1938年生まれ。62年にNET(日本教育テレビ/現テレビ朝日)入社。アナウンサーとして「ワールドプロレスリング」実況など多数の番組を担当。
福田竜一(東京新聞)
写真提供/山内猛
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