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記事全文を読む→伝説の刺青師が明かす“日活&東映スター”交流秘話「川島なお美の肌にも描いた」
実は河野にはもう1つの特技がある。刺青とともに、長年撮影所で河野しかできない仕事だったのが、海軍軍事指導である。
「日活の戦争映画は、全部僕が軍事指導をやったんだ。多くの映画を手伝ったが、一番間違いやすいのが、昭和17(1942)年の10月以前と以後で海軍の等級マークが違ったこと。そのへんは、経験した者でないとね。日活の舛田利雄監督が、日米合作で撮った『トラ・トラ・トラ』(70年)の時もやりたかったが、日活が日程的に自分を出してくれなかった。あれはいい映画なんだが、そのへんが間違ってたのが残念だったね」
裕次郎の「花と龍」を撮る舛田利雄監督が、河野を見込んで声をかけた映画がある。
「河野ちゃん、飛行機ものや。種子島長期ロケ、頼むで」
裕次郎がゼロ戦乗りを好演した「零戦黒雲一家」(62年、日活)である。男ばかりのボロボロの集団が決死で守る南海の島。女は島に流れ着いた、渡辺美佐子一人しか登場しない戦争映画で、サイパン、テニアン、マニラ、サイゴン‥‥と海軍上等飛行兵曹として転戦した経験を持つ河野の戦争体験がなければできない映画だったかもしれない。映画では、飛行場、兵舎を爆撃で破壊され、守備隊はカヌーで脱出する。裕次郎と二谷英明の二機は、米機を追って太平洋の青い海原に消えていく。
河野は、45年、マラリアにかかり生死をさまよった後、南方から北海道の美幌基地に転属となった。
だが、その年の7月、河野らに特別任務が発令された。サイパン、テニアンへの強行着陸斬り込み隊だった。決行予定は、月が明るい8月25日頃だったという。しかし、15日に終戦。美幌基地の兵舎前で終戦の詔勅を聞いて河野らは号泣した。
多くの先輩、同期、後輩たちが死地に赴くのを見送った。テニアン玉砕、そして神風特別攻撃隊。河野の戦後は、戦友たちの鎮魂から始まった。
「よく、生きて帰れましたね。どうですか、東京へ来ませんか」
京都で、そう声をかけてくれた藤田進の言葉から、河野の俳優としての道が拓けていく。藤田は、軍人役を演じさせては戦前、戦後を通して最も人気のあった俳優の一人だった。日本人の美徳とする武骨さと優しさが感じられる俳優だった。その愛弟子である河野にもどこか通じるものがある。
河野は、戦後70年の今年、卒寿を迎えた。
94年に福島県いわき市のロケ先に出かけ川島なお美の肌に刺青を描き上げて、旅館から寒い海岸ロケに同行したところ、突然頭痛に見舞われた。脳内出血で入院したが、治療とリハビリの甲斐あって、今では車の運転ができるまでに回復した。
06年に自費出版した小冊子「映画の刺青百姿」には、東映版「花と龍」以来の映画人生とともに軍隊時代の想い出も記録されている。河野にとって、どちらも忘れがたい想い出だ。
河野の映画人生を振り返れば、「花と龍」も「零戦黒雲一家」もそうであったように、日本人とは何かを問う人生だったろうか。
これまで折々に靖国神社に詣でる「海軍軍装会」の会長職もこなしてきたが、年々生存者も少なくなった。近年、執筆に打ち込んでいた自伝「或る搭乗員の記録」は、巡り来る8月15日を前に、とうとう書き上がった。
多くのスターたちに刺青を描き、戦後の映画界を影でささえた男は、今も戦友たちを想い、元気に一人暮らしている。
◆文:ルポライター 鈴木義昭
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