宮沢が芸能界を目指したきっかけは、10歳の頃に見た伝説的モデルの故・山口小夜子が出演するテレビCMにあった。11歳の時にモデルを志し、テレビCMや「週刊セブンティーン」の表紙に抜擢され、デビューを果たす。
しかし、その知名度を全国区へ押し上げたのは、新人美少女タレントの登竜門「三井のリハウス」のCMだ。87年、初代リハウスガール「白鳥麗子」を務めた宮沢の印象は、
「今でこそ美少女という言葉が定着しているが、宮沢さんは元祖美少女。パッと見た時の端正な顔だち。独特の品がありましたよね。年齢にそぐわない気品があった。そこがちょっと同年代のアイドルとは一枚違った。今どきのハーフタレントとは違う位置づけでした」(碓井氏)
この「リハウス」をきっかけに、宮沢はトップアイドルとしての道を一気に駆け上る。女優デビューは88年公開の「ぼくらの七日間戦争」だが、監督を務めた菅原浩志氏が当時をこう振り返る。
「映画の主要キャストである11人の子役は全員オーディションで選びました。けれども当時は現代劇を演じられる子役が少なかった。その中でも、最後まで難航したのは、りえが演じたヒロインの『中山ひとみ』という役柄だった」
菅原氏は、土日や平日の放課後などにオーディションを開き、1万人近くの応募者を選考したという。
「ちょうど1万人目くらいに出会ったのがりえだった。会った時は、よくぞ14歳になるまで、何色にも染まらずに‥‥無色、透明感漂う少女がいたんだという驚きがありました。素直でまっすぐな印象を受けた。役柄として、少し抜きん出たところがある学級委員長というキャラクターを求めていたので、この子だと、すぐに決めました」
5月16日、ラジオ「なかじましんや土曜の穴」(文化放送)に生出演した宮沢は、当時の心境について、
「歌手や女優には、まったく興味がなかった」
と語っているが、菅原氏もこう証言する。
「当時、中学2年生だったりえは、女優としてやっていくつもりはまったくなかった。ただ、中学生が主人公の映画だし、自分自身の中学生時代の思い出作りとして映画に出ることになったんです」
しかし、撮影が始まると現場にのめり込んでいったという。
「撮影が進めば進むほど、個性や活発さが出てきました。どんどんスケールが大きくなっていき、第一印象以上の潜在能力があるなと感じました。映画の中でりえが短パン姿で登場するシーンがあるのですが、自分ではさみを持ってきて、『監督、どのくらい短く切りますか?』と言ってくるなど、そうやって積極的に映画作りに関わってくれました。また映画のクランクアップ時に、目にいっぱいの涙をためていた姿は、今も忘れられません」(菅原氏)
「ヨルタモリ」では、下ネタも愚痴もみんな聞くことで、気難しい大物ゲストをデレデレにする宮沢。その原型は14歳の現場ですでにあったようだ。
「りえには、太陽のような明るさがありました。ムードメーカーとして冗談を言って笑わせたり。りえのもとには、不思議と人が吸い寄せられていく。みんな楽しかったと思いますよ。しかも自分本位ではなく、相手の立場に立って行動できるタイプでした」(菅原氏)
宮沢は89年「ぼくらの──」で日本アカデミー賞新人賞を獲得。90年には「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たし、瞬く間にスターダムを駆け上がっていった。