菅原文太の「仁義なき戦い」と並ぶ代表作が「トラック野郎」シリーズだ。コミカルで下品な作風にもフトコロの深さを見せて熱演、大ヒットした。生前最後に同シリーズを語ったと思われる貴重なインタビュー肉声を紹介しながら、稀代の反骨役者が「後世に伝えた...
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菅原文太が初めて東映で主演した作品は、昭和44年2月封切りの降旗康男監督の「現代や○ざ与太者の掟」。共演は待田京介、藤純子、若山富三郎だった。竹垣氏がこう言う。「私があとから聞いた話では、本当は待田京介主演の予定で、『恐喝の街』というタイト...
記事全文を読む→松竹のときに比べ、ギャラもはねあがったが、これは文太の作戦が図に当たった結果だったという。「松竹では20万だったけど、東映の担当が、『菅原さんは松竹でギャラはいくらでしたか』と言うから、これは正直に言うとダメだと思ったので、松竹の橋本さんと...
記事全文を読む→「仁義なき戦い」で大ブレイクする以前の役者修業時代から、菅原文太は反骨精神を発揮。松竹から東映に移籍する際には一計を案じてギャラの倍増にも成功した。一方、東映でかわいがられた若山富三郎との間には、映画さながらのドラマも繰り広げられていて──...
記事全文を読む→文太と深作が俳優と監督として昭和44年(1969年)7月の鶴田浩二主演の「日本暴力団組長」で出会い、初めて主役・監督コンビで撮ったのが、昭和45年1月の「血染めの代紋」だった。が、2人にとって決定的な作品となったのは、「現代や○ざ人斬り与太...
記事全文を読む→深作を「定型のない監督」と評した文太もまた、定型のない俳優といってよかったのではないだろうか。当時、東映本社宣伝部次長として「仁義なき戦い」の宣伝を担当した小野田啓も、宣伝ポスター用のスチールを撮る段になって、文太から言われたのは、それまで...
記事全文を読む→菅原文太の一大出世作「仁義なき戦い」が生まれるのに欠かせなかったのが、深作欣二監督との出会いである。ともに従来の映画界の「定型」にこだわらないタイプで、その強烈な個性同士がぶつかり、激しい“化学反応”を起こしたのだ。文太が語った伝説のヤ○ザ...
記事全文を読む→「仁義なき戦い」の映画化にあたっては、原手記者の美能幸三が最後まで難色を示して難航したのだが、どうにかその見通しが立ったとき、俊藤プロデューサーが監督として白羽の矢を立てたのが深作欣二だった。その直前、深作が文太とのコンビで撮った「現代や○...
記事全文を読む→菅原文太が初めて「仁義なき戦い」と出会ったのは、東京から京都へ向かう新幹線車中でのことだった。たまたま東京駅の売店で買い求めた週刊サンケイ(昭和47年=1972年=5月26日号)に、飯干晃一のドキュメント「仁義なき戦い」は載っていたのだ。文...
記事全文を読む→クワッと目を見開いて、たとえ相手が親分だろうが、激情をぶつけまくる──。実録極道映画で見せた菅原文太の姿は、晩年に尽力した社会的活動の姿勢そのままだ。生前に残していた未公開肉声の封印を解きながら、「反骨役者人生」の真実に迫る!「何なんでしょ...
記事全文を読む→“あなたは健さんと文太兄ィのどちらが、なぜ好きですか?”。北は北海道、南は沖縄まで、50歳以上の男性、約1000人を対象に、こんなふうに問う「究極の人気アンケート」を実施した。すると何とも意外な結果となったのだ。ともに、昭和映画界で「男が惚...
記事全文を読む→映画ジャーナリストの大高宏雄氏は「現代や○ざ人斬り与太」での文太の演技を目の当たりにして衝撃を受けたという。「暴力団組織に盾つく愚連隊のチンピラ役でしたが、荒れまくるバイオレンスは『仁義なき戦い』以上。文太のものすごい魅力が出ていた。あの作...
記事全文を読む→漫画家で映画監督でもある杉作J太郎氏と文太との出会いは75年に遡る。杉作氏は愛媛県出身で地元の進学校を中退したばかりだった。「進学校を退学して社会のレールから完全にハジき飛ばされ、疎外感のど真ん中にいました。ところが、その頃に見た『仁義なき...
記事全文を読む→「オレは高倉健派」「いや、菅原文太派だ」──。2大名優の立て続けの訃報にファンたちはそれぞれの思いを胸にしていることだろう。そこで、2人と接点もあり、アサヒ芸能ともなじみの深い「アサ芸有名人」たちに2人の魅力を徹底比較してもらった。作家の安...
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