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売野雅勇は、ややムッとした表情で「デビュー曲」の報を聞いた。芹澤と同じくサウンド面のプロジェクトに名を連ね、すでに何曲かのシングル候補が出来上がっていたのである。
そのデビュー曲は作曲こそ芹澤だが、作詞は康珍化の名が飛び込んできている。
「もともとJACの若手俳優に作っていて、ボツになったものを芹澤さんが急に引っ張り出してきた形」
それが83年9月21日に発売された「ギザギザハートの子守唄」である。
〈ちっちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれたよ〉
筆者は当時、喫茶店の有線から流れてきた同曲に面食らった。83年と思えないアナクロな歌詞と、それでいて耳に残るアレンジが奇妙だった。
売野の記憶によれば、メンバーも一様に難色を示していたという。中でもボーカルのフミヤは、即座にこう言った。
「これ、俺たちが歌うんですか? これって小林旭の歌じゃなくて?」
当初の売野&芹澤ラインを後回しにして「ギザギザハート──」を入れ込んだ理由を、ディレクターの吉田はこう語る。
「フミヤの愛らしいルックスで、あえてメッセージ性の高い歌を歌うというミスマッチを狙いたかった」
フミヤが言うように楽曲は「小林旭チック」でも、サウンド的にはニューウェーブの要素が強い。そのため、ファンにもメンバーにも、じわじわと愛着が芽生えていった1曲である。
売野はチェッカーズがブレイクした以降の日本武道館で、地響きを立てるようなファンの狂喜は「ギザギザハート」だったと証言する。もっとも、発売当初はまったく売れていない。
「テレビ東京の深夜で、天気予報のバックにPVが流れていたくらいだったかな。実は発売直後にヤマハの担当者の結婚式があって、そこでトオルとマサハルに言われたことがあります。次の曲は売れるんでしょうかと。もし、ダメだったら俺たちは久留米に帰らなきゃいけないかもと必死でしたね」
チェッカーズは歌と踊り、そして衣装やヘアスタイルに至るまで、総合的に「見せる」ことでスタートしている。ただ、残念なことにデビュー曲の不発でその機会が回ってこない。そもそもNHKでは放送禁止に近い扱いだったと吉田は言う。
「初めて『レッツゴーヤング』の新人特集に出るチャンスが来たけど、番組から歌の変更を言われました。やはり『仲間がバイクで死んだのさ』というフレーズがNGだったようです」
それでも出演そのものに支障はなく、B面曲の「恋のレッツダンス」を披露。爆発的ではないものの、感度のいい女の子たちが存在をキャッチした。その波は仙台、大阪と地方から広がり、噴火の瞬間を待つ。
「歌番組には出られないから、地方のキャンペーンや公開録音は大小の仕事に関わらず、どんどん入れていった。それこそ『みかん箱の上でも歌う』という形で、見てもらうことを最優先しました」
吉田は、メンバーの汗が実を結ぶと確信していた。
アサ芸チョイス
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