日本とモンゴルの外交問題に発展したモンゴル草原火災に、元横綱・朝青龍ことドルゴルスレン・ダグワドルジ氏が「物言い」をつけた。火災が起きたのは10月8日。モンゴル東部ドルノド県のヌムルグ自然保護区で規模な草原火災が発生し、東京都の約2.4倍に...
記事全文を読む→毒盛り・刺し違え・偽装潜入…「織田信長の暗殺」を4回も試みた戦国武将の「深すぎる執念」
戦国時代の雄・織田信長の暗殺を数回にわたって試みた武将がいる。信長の妹・お市の方と結婚した浅井長政の家臣・遠藤直経、通称は喜右衛門だ。
永禄11年(1568年)8月7日、信長はのちの室町幕府15代将軍・足利義昭を擁して上洛するにあたり、その前に浅井長政と対面することになった。この対面は近江佐和山城で行われたが、饗応の席で直経は信長暗殺を試みたという。
ところが長政は、毒殺は人道に反するとして認めなかったため、仕方がなく中止したと伝わっている。とはいえ、信長を殺害しなければのちのち後悔することになると考えた直経は、信長と刺し違えようとしたが、同席していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)にバレて妨害され、未遂に終わった。
それでも諦めきれない直経は8月17日に再度、信長の命を狙った。織田家と浅井家の婚儀が整い、信長が柏原の成菩提院に宿泊することになった時の話だ。直経は浅井縫殿助、中島九郎次郎とともに、接待役を命じられていた。
この時、信長は手勢を連れておらず、身の回りを世話する小姓だけを15人程度、引き連れていた。チャンス到来と考えた直経は長政に再度、信長暗殺を進言したが、やはり許可が下りず、未遂に終わっている。
直経は元亀元年(1570年)、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突した姉川の戦いで討ち死にしたが、この合戦でも信長の暗殺を試みた。
浅井軍が総崩れとなって敗れた後、信長は家臣に恩賞を与えるため、首実検を行った。首実検には大勢の家臣が参加するため、中には家中で顔を知られていない者も同席する。その千載一遇のチャンスに、直経は戦死した浅井・朝倉連合軍の武将・三田村左衛門の首を抱えながら、織田家の家臣のフリをして本陣に乗り込んだ。
ところが、運は味方しなかった。信長の近くには軍師・竹中半兵衛の弟(一説には子供)である久作が控えていた。竹中兄弟は一時、浅井家の客分になっていた時期があり、直経とは顔見知りだったからだ。
直経は信長に数十メートルのところまで近づいた時点で久作に正体を見破られ、そのまま首をかき切られてしまったという。
もし、どこかの場面で直経の暗殺が成功していれば、その後の歴史は大きく変わっていたことだろう。
(道嶋慶)
アサ芸チョイス
「本格復帰に向けた観測気球を兼ねているのでしょう」こう話すのはさる芸能ジャーナリストだ。10月26日に開催された東京国際映画祭のレッドカーペット。雨が降りしきる会場で報道陣や観客の目をひと際引いたのが、女優の永野芽郁である。主演とプロデュー...
記事全文を読む→今年のお笑い賞レースは10月17日に「キングオブコント」が終わり、あとは11月1日の「NHK新人お笑い大賞」、そして12月の「M-1グランプリ」を残すのみ。賞レース番組では審査員の採点、コメントが大きくクローズアップされるが、その責任の重さ...
記事全文を読む→前巨人2軍監督・桑田真澄氏の次男でタレントのMattから「性被害を受けた」として、一昨年から今年にかけて、警視庁に複数の被害届が提出されていたと「週刊文春」が報じている。それによると、1人目の被害者は今年1月、都内でMattと美容系インフル...
記事全文を読む→

