大型連休を目前に控え、旅行やレジャーの計画に胸を躍らせる時期がやってきた。かつてのゴールデンウィークといえば、家族連れの行楽や帰省ラッシュが風物詩だったが、令和の今はその常識が塗り替えられつつある。近年、若い世代の間で「ソロ活」は一過性のブ...
記事全文を読む→毒盛り・刺し違え・偽装潜入…「織田信長の暗殺」を4回も試みた戦国武将の「深すぎる執念」
戦国時代の雄・織田信長の暗殺を数回にわたって試みた武将がいる。信長の妹・お市の方と結婚した浅井長政の家臣・遠藤直経、通称は喜右衛門だ。
永禄11年(1568年)8月7日、信長はのちの室町幕府15代将軍・足利義昭を擁して上洛するにあたり、その前に浅井長政と対面することになった。この対面は近江佐和山城で行われたが、饗応の席で直経は信長暗殺を試みたという。
ところが長政は、毒殺は人道に反するとして認めなかったため、仕方がなく中止したと伝わっている。とはいえ、信長を殺害しなければのちのち後悔することになると考えた直経は、信長と刺し違えようとしたが、同席していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)にバレて妨害され、未遂に終わった。
それでも諦めきれない直経は8月17日に再度、信長の命を狙った。織田家と浅井家の婚儀が整い、信長が柏原の成菩提院に宿泊することになった時の話だ。直経は浅井縫殿助、中島九郎次郎とともに、接待役を命じられていた。
この時、信長は手勢を連れておらず、身の回りを世話する小姓だけを15人程度、引き連れていた。チャンス到来と考えた直経は長政に再度、信長暗殺を進言したが、やはり許可が下りず、未遂に終わっている。
直経は元亀元年(1570年)、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突した姉川の戦いで討ち死にしたが、この合戦でも信長の暗殺を試みた。
浅井軍が総崩れとなって敗れた後、信長は家臣に恩賞を与えるため、首実検を行った。首実検には大勢の家臣が参加するため、中には家中で顔を知られていない者も同席する。その千載一遇のチャンスに、直経は戦死した浅井・朝倉連合軍の武将・三田村左衛門の首を抱えながら、織田家の家臣のフリをして本陣に乗り込んだ。
ところが、運は味方しなかった。信長の近くには軍師・竹中半兵衛の弟(一説には子供)である久作が控えていた。竹中兄弟は一時、浅井家の客分になっていた時期があり、直経とは顔見知りだったからだ。
直経は信長に数十メートルのところまで近づいた時点で久作に正体を見破られ、そのまま首をかき切られてしまったという。
もし、どこかの場面で直経の暗殺が成功していれば、その後の歴史は大きく変わっていたことだろう。
(道嶋慶)
アサ芸チョイス
3月から4月にかけて、地方などの首長選で自民党推薦候補が相次いで敗北している。高市内閣が依然として高い支持率を保つのに、だ。PR会社関係者が明かす。「4月12日の東京・練馬区長選では自民などが推薦し、小池百合子都知事も支援した前都議が圧勝す...
記事全文を読む→まさに「泣きっ面に蜂」である。ほかでもない、「後発地震」と「山林火災」と「クマ出没」という、未曽有の「三重苦」に見舞われている岩手県大槌町の被害実態だ。町民の心胆を寒からしめているコトの次第を、時系列に沿って追ってみると…。三陸のリアス式海...
記事全文を読む→中国で今、国防の要となるエリート科学者たちが、まるで示し合わせたかのように次々と謎の死を遂げている。公表されているだけでも、その数は9人。死亡者の年齢は26歳から68歳までと広いが、中国メディアやSNSでは「深夜の交通事故」など、その死亡原...
記事全文を読む→

