少子高齢化の現代において、双子の出生率が増しているという。かつて日本では、双子は「犬畜生と同じ双子腹」と忌み嫌われる存在だった。実は徳川家康の血を引く双子がいたことを知っているだろうか。
その双子とは天正2年2月8日(1574年3月1日)、家康の側室・お万の方(長勝院)が産んだ結城秀康、そして弟の永見貞愛である。お万の方は家康の正妻である築山殿の奥女中で、お手つきとなって懐妊したが、当初は側室として認められず、認知もされなかった。
それでも家康の長男・松平信康のとりなしにより、3歳で家康と初対面し、築山殿の死後に初めて実子として認められている。
一時は羽柴(豊臣)秀吉の養子となった秀康は、天正18年(1590年)の小田原征伐後は関東移封となった家康とともに江戸城に入り、下総国の結城晴朝の姪・江戸鶴子と結婚して結城家を継いだ。兄で長男の信康は天正7年(1579年)、甲斐の武田氏と内通していたということで切腹。本来なら次男である秀康が家督を継ぐはずだったが、母・お万の方の身分が低いことや誕生の経緯もあり、弟の秀忠が家督相続することになった。
それでも秀康は越前国北之庄藩(福井藩)の初代藩主・越前松平家の祖となり、68万石の大大名になったが、弟の貞愛は全くスポットライトが当たらない人生だった。生まれた後はこちらも家康からは実子として認められなかっただけでなく、死んだことにとされ、お万の方の永見家に里子に出された。
永見家は由緒正しい家で、三河国・智(池)鯉鮒大明神(現在の知立神社)の神職を務めていた。貞愛は18歳で、神職だった伯父・永見貞親の娘と結婚して第32代の神主になった。貞愛は一子・貞安をもうけたが次第に足が悪くなり、慶長9年11月16日(1605年1月5日)、わずか31歳でこの世を去った。
秀康もその3年後、梅毒が原因で死去したという。双子というだけで運命に翻弄された兄弟かもしれないが、2人の間には交流があり、秀康が手紙や米を送るなどの援助をしていたことは、救いかもしれない。
(道嶋慶)