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記事全文を読む→奇跡の脱北起業家〈第8回〉なぜ彼女は「平壌冷麺」と海を渡ったのか(3)テレビ出演で「ソルヌン」PR
だが、2020年に入るや、新型コロナウイルス感染症が拡大し、飲食店は苦境に陥る。「ソルヌン」も例外ではなかったが、すでに舌と胃袋をがっちりつかんでいたため、なんとか乗り切れた。やがてコロナ禍が収束するとテレビの情報番組に相次ぎ登場、ついにはNHK・BS1の「突撃!ストリートシェフ」でも取り上げられた。
「放映直後から日本人観光客がたくさんきてくれて。成さんはソルヌンの冷麺は日本人も好きだと言っていたんですが、確信しました」
2号店もソウルでとの計画を変更し、夫のふるさと千葉市稲毛区に進出することにした。準備のため成田国際空港に降り立ったところを偶然、テレビ東京の「YOUは何しに日本へ?」撮影クルーに発見され、2024年3月22日の日本1号店オープンを控え、願ってもないPRまでできた。
思えば、脱北からの10年あまりの歳月は疾風怒濤だった。きょうも「ソルヌン」のホールでヨンヒの声がはじける。成が丹精込めて仕上げたとっておきの平壌冷麺をとびっきりの笑顔で振るまう。鶏、豚、牛など5種類の食材からとった滋味ぶかい黄金スープ、そばの実を皮ごと製粉した歯切れのいい麺。一度、口にしたらとりこになる。韓国のグルメ漫画の巨匠、「食客」の作者、ホ・ヨンマンも太鼓判を押した。
「自信になりました。お客さまがスープを最後まで飲み干してくださり、おいしかったと声をかけてもらえたら、疲れも吹っ飛びます。お客さまにはただただ感謝しかありません。そして生きていることのすばらしさにも」
たまの休日、家族で「ソルヌン」からほど近い稲毛海浜公園へ出かける。天気がよければ、遠くに富士山がのぞめる。波打ち際で遊ぶ息子の丈一郎はソウル生まれだ。ヨンヒはふと少女時代をすごした元山を思い出す。
「やんちゃだったんですよ、私。元山港の埠頭に日本から船で運んできたガラクタの集積場があってね。通称、香港市場。なんでもあった。中古自転車や自動車のタイヤ、ゴルフボール‥‥。私は友だちと破れたフェンスのすきまから入り、いろいろいただいちゃった。情報もモノも乏しい国で育ったから、よけい好奇心旺盛になった。日本のファウンデーションにドキドキした。半分くらい残っているSKⅡまであってね。鏡のついたケースがきれいで。盗んじゃだめってママにはしかられたけど、あれが日本へのあこがれの原点かもしれないなあ」
韓国にはいま、3万5000人ほどの脱北者が暮らす。日本にも200人ほどの脱北者がいる。だが、ヨンヒのようなエリート層はきわめて珍しい。
「もっと北朝鮮の真実を知ってほしくて、友人とユーチューブ・チャンネル『Beyond Borders』をスタートさせ、情報を発信しています。日本語だけでなく、英語でもやるつもりです。金ファミリーが支配するシステムは嫌だけど、そこで暮らす人間は同じ。壁を越えて生きてきた私は愛の平壌冷麺、奇跡の平壌冷麺で人と人をつないでいきたい。夢はアメリカ進出! アハハ」
広い世界、自由を求めた済州島の海女の思いは一杯の冷麺のなかに生きている。
鈴木琢磨(すずき・たくま)ジャーナリスト。毎日新聞客員編集委員。テレビ・コメンテーター。1959年、滋賀県生まれ。大阪外国語大学朝鮮語学科卒。礒𥔎敦仁編著「北朝鮮を解剖する」(慶應義塾大学出版会)で金正恩小説を論じている。金正日の料理人だった藤本健二著「引き裂かれた約束」(講談社)の聞き手もつとめた。
写真/初沢亜利
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