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記事全文を読む→後藤組・後藤忠政元組長「反骨の生涯83年」(2)一和会会長宅へダンプカー特攻
後藤元組長の渡世入りは、最初の東京オリンピックの翌年、1965年頃とされるが、それ以前の様子を山口組事情に詳しいジャーナリストが解説する。
「後藤元組長は1942年に、裕福な家庭に生まれました。生家は大理石敷きの床に、庭には温室、弓道場まで設えるほどの名家だったそうですが、父親が事業に失敗し、幼少期には鉛筆一本買う余裕がないほどの極貧生活を経験。辛酸をなめたことが、その後の後藤元組長の反骨心を育てたのでしょう。中学を卒業する頃には、愚連隊を結成して地元・富士宮で不良仲間と暴れまわるなど、早くも武闘派としての一面を見せていたと言います」
その後、田岡一雄三代目時代の山口組若頭補佐だった「ボンノ」こと菅谷組・菅谷政雄組長の舎弟で「北陸の帝王」と呼ばれた初代川内組・川内弘組長と縁を持ち、後藤元組長は川内組に迎えられる。若くして後藤組を旗揚げし、富士宮市に菱の代紋を掲げたのだ。ジャーナリストが続ける。
「当時の後藤元組長に接した関係者は一様に『胸になにかを秘めた感じで無口だった』と証言するほど、野心に満ちた若手ヤクザと見られていたのです」
当時、後藤元組長率いる後藤組は静岡県東部へと進出して勢力を拡大。実際に武闘派軍団として名を馳せていった。川内組でも若頭補佐のポストに就くなど、ヤクザとしては順調な出世を遂げている。
ところが、川内組長は77年に菅谷組の内紛で射殺されてしまう。親を失ったことで後藤元組長は一時的に、どこの組織にも属さない独立組織として後藤組を存続させる。当時を知る前出とは別の地元関係者によれば、
「この時期、後藤元組長は親の仇を討つことに執念を燃やしていたそうだ。それを踏み止まらせたのは、縁あって三代目山口組直参だった浜松の伊堂組・伊堂敏雄組長の舎弟となったことだった。その後、伊堂組舎弟として県外にも進出するなど、後藤組の勢いは増していく。他組織に先駆けて、一般社会の経済活動への足がかりを得たのもこの頃で、着実に組織の経済基盤を構築していった。これも後藤元組長が多方面に先見の明があったということだろう」
84年に山口組・竹中正久四代目が誕生すると、伊堂組長が引退。それまで組織を牽引してきた実績が認められて後藤元組長は山口組直参に取り立てられる。
しかし、その後は周知のように竹中四代目は暗殺され、一和会との「山一抗争」が過激さを増していく。新直参として後藤元組長も抗争へと参戦していく。
そして、後藤組の戦闘性の高さをまざまざと見せつけることになる。多くの事件を引き起こした後藤組だが、中でも全国にその名を知れ渡らせたのは、一和会・山本広会長宅へのダンプ特攻だろう。
85年5月、神戸市内の山広邸付近に8トンのダンプが現れた。当時、山広邸前の道路は警察当局によってバリケード封鎖され、警察官が常時張り付け警戒に当たっていた。実行犯たちは車体前部を改造してバリケード状の車止めを破壊し、16人の警官と銃撃戦を演じながら突っ込んでいったのだ。警官の銃撃により、実行犯は重傷を負うなど、文字どおりの特攻だった。
しかも、ダンプにはダイナマイトが積まれており、あわよくば山本会長を邸宅ごと爆殺しようとしていたことがわかる。この実行犯3人のうち2人が後藤組組員で、残る1人が同じ静岡に本拠を置く美尾組系組員だった。
「決死の攻撃が与えたインパクトは大きかった。一和会側にしてみれば、精神的なダメージを受けるほどの衝撃で、山口組側にしてみれば貢献度の高い事件であったのです」(ジャーナリスト)
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