「私は核を持つべきだと思っている」高市政権で安全保障政策を担当する官邸筋が、オフレコとしながらも記者団の取材でこう述べたのは12月18日。むろん日本には「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」という非核三原則がある。爆弾発言の主は「三原則...
記事全文を読む→北朝鮮
もはやこの男たちがやっていることは、鬼畜の所業以外の何物でもない。12月3日に米ワシントンで開かれた上院公聴会でのこと。その席でウクライナの人権団体「地域人権センター」の法務専門家が、ロシアに拉致された子供たちの一部が、北朝鮮の江原道元山市...
記事全文を読む→だが、2020年に入るや、新型コロナウイルス感染症が拡大し、飲食店は苦境に陥る。「ソルヌン」も例外ではなかったが、すでに舌と胃袋をがっちりつかんでいたため、なんとか乗り切れた。やがてコロナ禍が収束するとテレビの情報番組に相次ぎ登場、ついには...
記事全文を読む→「ママは元看護師でもあったので介護の仕事をやると言い出したんですが、私は飲食店をやろうと決めていました。ソウルは空前のカフェブームでした。迷いましたが、私たちの強みは平壌からきたこと。なら、平壌冷麺しかない。日本にいる親戚もバックアップして...
記事全文を読む→ヨンヒの物語もいよいよ最終回。北朝鮮に残してきた家族を脱北させ、ソウルで念願の平壌冷麺店を起業する。その味がグルメをうならせ、2号店は日本の千葉に—。ヨンヒの夢はふくらむばかり。波瀾万丈の人生はまだ続きそうだ。心の友、ポメラニアンの「ラッキ...
記事全文を読む→もっと広い世界に生きなさい─。海女だった祖母の言葉に背中を押され脱北したヨンヒ。ソウルの陽川区木洞にあるマンションが広い世界へ踏み出す第一歩になる。「私はハナ院の216期、150人いた同期は抽選で全国に振り分けられたんですが、ソウルになった...
記事全文を読む→気づけば、7月になっていた。平壌のマンションを出発したのが5月だから2カ月におよぶ過酷な旅であった。敷地内にある別館にはざっと160人の脱北者がいた。「驚きました。みんな韓国へ行く順番を待っているんです。週1ペースで十数人まとめて送っている...
記事全文を読む→北朝鮮を離れたヨンヒは韓国大使館のあるラオスを目指すが、その過程は「死」と隣り合わせだった。同じ脱北者との共同生活をへて、ソウルへ到着するも、そこには新たな苦しみが待ち受けていた。好評連載第7回は、手に汗握る奇跡の逃避行の全容をお伝えする。...
記事全文を読む→さて、ヨンヒが普天のブローカー宅に身を潜めて3日目の夜だった。いつものジャガイモご飯を食べていると、ブローカーの妻が声をひそめて言った。「ヨニちゃん、今晩よ」ヨンヒはリュックを確認した。大事に使っていた黒字に白の水玉模様の日本製リュックだ。...
記事全文を読む→翌日も雨はやまない。鴨緑江の水かさは増しているに違いない。ここまできていながら、渡れないかもしれない。いや、悪天候だから監視は緩いはず。うまくいくに決まっている。あれこれ想像をめぐらせているうち、ヨンヒは寝つけなくなったが、どこか安心してい...
記事全文を読む→ついに運命の日がやってくる。最愛の母に別れを告げ、ヨンヒは「脱北」へ向け、周到な準備をした。金正日お抱え占い師のアドバイスまでもらって。好評連載第6回は、生死の境をさまよいながら国境の川を越え、広い世界にたどりつくまでのドキュメント。いまも...
記事全文を読む→2014年の暮れ、ヨンヒは張哲九平壌商業大学を卒業する。建設労働に駆り出されたため2年半も遅れた。それでも名門大卒の経歴を得たことはうれしかった。晴れやかな記念写真を撮り、同級生らと和気あいあいの卒業パーティーもやった。だが、北朝鮮に職業選...
記事全文を読む→たまにヨンヒが口ずさむ歌に「ツバキの花一輪」がある。2003年に朝鮮中央テレビで放送された連続ドラマ「漢拏のこだま」の挿入歌だ。何度も再放送され、DVDまで発売されたこのドラマ、いわゆる「済州島4.3事件」が題材になっている。1948年4月...
記事全文を読む→ようやく祖母の眼鏡にかなったブローカーが見つかる。2013年の夏、海州にいる祖母が娘一家の暮らす平壌にやってくる。いつもとどこか雰囲気が違った。「『ヨニちゃん(ヨンヒの愛称)、おばあちゃん、この国を出ることにしたの。一緒に行かないか』って。...
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