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徳川家康の暗殺計画に加担したため、大名の地位を剥奪。その後、許されて大名に返り咲き、徳川幕府第2代将軍・秀忠の話し相手に指名された戦国武将がいる。下総国多古(田子)藩の初代藩主・土方雄久である。
土方家は大和源氏の流れをくむ家柄で、雄久は織田信長とその次男・信雄に仕え、4万5000石の所領を与えられていた。その後は豊臣秀吉の家臣となり、秀吉の死後は秀頼に使えている。
慶長4年(1599年)9月7日、五大老の徳川家康は重陽の節句を祝うため、居住していた伏見から大坂城の秀頼、淀殿母子のもとを訪れようとしていた。
この時、大坂城内では、秘かに家康を毒殺する計画が進行していた。首謀者は五大老の前田利長で、加担したのは土方雄久、大野治長、そして五奉行の浅野長政と伝わっている。
この毒殺計画は、五奉行の増田長盛による密告で発覚した。密告を受けた家康は伏見から軍勢を呼び寄せ、万全の警備態勢で大坂城に登城したため、暗殺は未然に防がれたのである。
首謀者と疑われた人々には厳しい処分が検討されたが、実際に下ったものは、予想外に軽かった。土方雄久も死罪にはならず、改易されて常陸国に配流され、佐竹義宣に預けられたのみだった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い前に許されて家康配下になった雄久に、重要な仕事が巡ってきた。暗殺未遂事件の首謀者と目されながら、家康でも大々的に処分を下すことができなかった大大名・前田利長を説得して、東軍に加入させることである。一説によると、雄久と利長はいとこ同士だったため、この勧誘工作が成功したという。
この功により、雄久は越中布市に1万石の所領を与えられて大名に復帰。その後、能登国石崎へ替え地となったが、慶長9年(1604年)、下総国多古(田子)にも5000石が与えられる。諸説あるが、陣屋を移して多古藩初代藩主となった。
父・家康を毒殺しようとした雄久を、秀忠はなぜか気に入ったらしい。側近のお伽衆として雑談の相手をさせ、時として、経験談を語らせていたという。
秀忠は、外桜田にあった雄久の屋敷も再三訪れたと伝わっている。
(道嶋慶)
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