江戸時代に放火魔や盗人、博徒を取り締まる「火付盗賊改」という職務があった。とりわけ時代小説家・池波正太郎が描いた「鬼平犯科帳」の主人公・長谷川平蔵は有名だ。
平蔵は盗賊にとって鬼より怖い人物といわれたが、それを上回る過激でエキセントリックな火付盗賊改がいた。横田松房(よこた・としふさ)という江戸時代中期の旗本だ。書院番士からトントン拍子に出世し、天明4年(1784年)に火付盗賊改に就任したという。
横田の取調べは常軌を逸していた。自ら横田棒と呼ぶ拷問道具を発案。この横田棒を石抱と併用し、正座して石を抱く囚人が折り曲げた脚の合間に挿入したという。石抱は別名を「石責め」とも「算盤責め」ともいわれ、洗濯板のような板に囚人を正座させ、その膝上に重石を乗せて脛を痛めつける拷問だ。
正座したその膝の上に積まれた石と、脚の合間に挟まれた棒が骨を砕き、それが皮膚を破って流血。その傷口に練った墨までなすりつけて、自白を促した。あまりの過酷さに囚人が死亡するケースが続出したため、ついに使用禁止になったという。
だが拷問の激しさは変わらずで、毎年夏ともなると、囚人たちの傷口は膿んで蛆が湧いた。苦痛のあまり垂れ流した汚物などで、拷問場を兼ねていた横田の屋敷からは異臭が漂い、近隣の旗本は口々に横田の屋敷の配置換えを希望した。
横田は天明5年(1785年)、作事奉行に昇進して火付盗賊改方はお役御免となったが、過激な言動は収まらず。天明7年(1787年)に、新番頭に左遷された。
この職務は将軍外出時の警備、警護役だが、太平の時世はまさに閑職だ。今なら一大スキャンダルになっていても不思議ではない、究極のサディスティック人間だろう。
(道嶋慶)