昭和を代表するお笑い芸人、ポール牧が亡くなって20年になる。筆者は35年ほど前に、「指パッチン」でお馴染みの、ポール牧の連載を担当した。僧侶という一面もあることから、人生相談的な内容の連載となった。
打ち合わせのため、新宿の自宅マンションを訪れた際、上機嫌で筆者を部屋に招いて、コーヒーをごちそうしてくれた。さらにはジャケットを数着プレゼントされた。普段着られないような極彩色のド派手なステージ用衣装だったが、ポール牧ほどのベテラン芸人の気遣いには感激したものだ。
連載は自宅マンションの1階にある喫茶店で話を聞き、それを筆者が原稿に起こすというスタイルだった。1回の取材で3~4本分の話を聞くという段取りで進められ、1カ月に2回程度のペースで取材を行い、半年間の予定で連載することになった。ところが…。
最初の1、2回はスムーズに進んだが、その後、連絡が取れなくなるという事態が続いた。当時の彼にはマネージャーがついておらず、携帯電話もない。ひたすら自宅に電話するしかない。締め切りギリギリになってようやく…ということが続き、筆者は予定していた旅行を直前でキャンセルせざるをえなくなったこともある。
ところが約束をすっぽかしても、悪びれた様子はなかった。なんとか連絡が取れ、取材に応じた際には、非常に熱心に話してくれた。
そんなわけで、無事に連載が終わった時にはこのストレスから解放され、安堵したものだ。とはいえ、いったいどういう思考の持ち主なのか、最後までわからないままであった。
それから数年後に再会する機会があった。彼は格闘家やプロレスラーと親しく、あるプロレスラーのイベントに、ゲストとして出演していた。
筆者は「その節はお世話になりました」と挨拶にいったのだが、「どなたでしたかしら」とつぶやいた。筆者のことは全く印象に残っていなかったようで、これには少なからずショックを受けたものだ。
それから10年後ぐらい経った2005年4月22日、彼は自宅マンションから飛び降り、自死した。このニュースを聞いた時、「まさか」と思った。自殺などというものから最も遠い存在だと思い込んでいたからだ。
実は1983年にも自殺未遂をしたことがある…という事実をこの時に初めて知り、同時に自身の認識の甘さを知った。もしかしたら連載期間中にも、他人には言えない深い苦悩があったのかもしれない、などと想像した。
誰かが自殺した時、ニュースなどで「とてもそんなことをするような人には思えなかった」という知人のコメントが報じられたりするが、こんな言葉には何の意味もないことを思い知ったのである。
(升田幸一)