女性アイドルの世界ではしばしば、乃木坂46やAKB48などのセンター争いが話題になるが、それは今の時代に始まったわけではない。江戸時代、「明和の三美人」と呼ばれる女性がいた。その筆頭は笠森お仙で、江戸・谷中(現・台東区谷中7丁目)にある笠守稲荷境内の水茶屋で働いていた。今でいうメイド喫茶やキャバクラのNo.1というところだろう。
とにかく美人で、明治時代まで子供たちの手毬歌にも歌われていたという。お仙が有名人になったのは、その美女ぶりを聞いて浮世絵に仕立てた絵師・鈴木春信と、お仙に惚れて通った戯作者・大田蜀山人によるものだった。
そのお仙とセンターを争っていたのが、柳屋お藤だった。お藤は浅草の柳屋という店で楊枝を売っていた。この時代の楊枝は現代のものとは異なり、竹で作った歯ブラシのようなもので、江戸の人々はそれに塩を付けて歯を磨いていた。
柳屋は浅草・雷門を入って浅草寺参道、仲見世にあったらしい。店の近くに大きな銀杏木があったことから銀杏お藤、銀杏娘とも呼ばれた。
江戸の当時、浅草は日本一の盛り場であった。そこに笠守お仙と日本一を競う美女の柳屋お藤がいたため、江戸っ子たちは使いもしないのに、楊枝を買うことを口実に、柳屋に日参したという。いつの時代も、下心丸出しの男性陣の行動は同じということか。
お仙は河竹黙阿弥の脚本によって芝居になり、浮世絵や小説に取り上げられたが、お藤も負けてはいなかった。当時の人気女形である2代目瀬川菊之丞が、明和6年(1769年)に上演された歌舞伎「容観浅間嶽」でお藤を演じている。これを浮世絵師・一筆斎文調が描いた作品が現存しているほどだ。
大田蜀山人は「売飴土平伝」の中にある「阿仙阿藤優劣弁」でお仙を優位としながらも、お藤を「玉のような生娘とは此れ之を謂うか」と称賛している。
お藤が柳屋で働いていた時期はごく短く、その後の詳細はわかっていない。なお、お仙、お藤とともに三大美人とされたのは、浅草・二十軒茶屋「蔦屋」の看板娘およしである。
(道嶋慶)