社会
Posted on 2025年09月21日 18:01

奇跡の脱北起業家〈第1回〉なぜ彼女は「平壌冷麺」と海を渡ったのか(2)朝鮮総連結成と祖父の存在

2025年09月21日 18:01

 ヨンヒが生まれたのは1991年4月、日本海側にある江原道元山だ。港湾都市で、古くから新潟との航路があり、帰国者がたくさんいる。金正恩の肝いりで大規模リゾートが完成したばかりでもある。1991年といえば、すでにベルリンの壁はなく、韓国はソ連と国交を樹立、そのソ連もこの年の暮れ崩壊した。社会主義国・北朝鮮が体制存亡の危機を迎えていたころである。金日成は活路を見いだそうとし、国交正常化へ向け、金丸信、田辺誠を団長とする訪朝団を受け入れるなど日朝関係改善へと動き出していた。交渉は頓挫するものの、帰国者にとっても一条の光だった。

 ヨンヒの母、崔順玉は元山に住んでいたエリート軍人、文義胤と結婚する。彼も帰国者で、ルーツも同じ済州島。文義胤の父、文在連は貧農の出だが、幼くして文才にたけ、晩年に「無名戦士の略歴」と称する自伝を残している。それによれば、1926年に家族と大阪へ移住、鉄工所やメッキ工場で働き、日本人労働者らと朝鮮人のための夜間学校を開設する。朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯合会)の結成にも携わり、東京の台東支部委員長に就く。1960年の第41次船で帰国したときは1300人を引率する責任者であった。

 祖国とはいえ、見知らぬ土地で育った両親、そのなれそめをヨンヒは冗談まじりに語る。

「元山にいた母方のおばさんがパパに紹介したんです。ママは芸術宣伝部隊で歌っている1枚のカラー写真を送る。歌がうまく、背も高いのでパパは気に入った。元山から海州まで列車で行くの。2~3日かけてね。デートといっても家でご飯を食べてしゃべるだけ。ある朝、ママの使っている洗顔クリームが臭いと言って大げんかになって。パパ、夜中までギターを弾き、なだめたんだって。大好きだったのね。長距離恋愛は1年続き、ようやく結ばれたそうです」

 元山での暮らし向きはよかった。帰国者のうちでもトップクラスといえた。元総連幹部の子息である父は朝鮮人民軍総政治局傘下の高級軍人専用休養所の所長になっていた。住まいは元山の一等地、松濤園ホテルのそば、6階建てマンションの2階にあった。窓を開ければ、港が見えた。ヨンヒは幼稚園のころからピアノの英才教育を受け、元山芸術学院(大学)の初級班(小学校)、中級班(中学校)へ進む。自宅にはピアノがあった。「万景峰号」で日本から運ばれてきたものだ。

「船長の奥さんが中古ピアノを仕入れ、家で売っていたんですよ。初めはヤマハのU2というランクのピアノを買って、次にU3という上位ランクのピアノを買ってくれました」

 ヨンヒの母はそんなエリート軍人の妻である。のんびり優雅に過ごせただろうにそうはいかない。済州のDNAだ。元山芸術学院の近くにある大型ヘルスセンター「恩徳院」の2階をすべて食堂に改装し、社長におさまる。テーブルが60、メニューは50~60種類。厨房は7人、刺身担当、鉄板担当の料理長がそれぞれいた。

「私は学校が終わると、その足でママの食堂へ寄るの。私の顔を見たら、料理人が聞く。きょうはヨニちゃん(ヨンヒの愛称)、なに食べる? 私はオムライスがいいなって答えたり。冷麺もいっぱい種類があり、お好み焼きもいなり寿司もありました。焼き肉もあって、夜は11時までビールをじゃんじゃん売ってましたね」

 ちょっと意外だ。1994年に金日成が死去してまもなく、北朝鮮は未曾有の食糧危機に陥る。飢えた人民は木の皮や根っこまで口にし、全国で100万単位の餓死者が出たともいわれる。

「ソウルで別の脱北者から聞きました。同じマンションの住人が死んでいたとか、道路に死体がごろごろあったとか。『苦難の行軍』の時期ですが、私は死体を見たことがないんです。泥棒やコッチェビ(浮浪児)はいましたけど。私の印象では2000年代の初めまで元山は平壌より経済状況はよかった。日本との交流が一番あったのが元山だったからかもしれません」

 ただ電気事情は最悪だった。停電ばかりで夜はロウソク。ところが、ヨンヒの自宅近くにある金日成・金正日の銅像は煌々と照らされている。そこからこっそり電線を引き、ひと部屋だけ明かりをつけた。

「バレちゃいけないから、窓に毛布をかけてね」。そんな苦労もあったが、日々、ヨンヒは日本製の中古自転車で学校に通った。あまり好きでなかったからピアノはなかなか上達しない。金日成・金正日の革命歴史を丸暗記させられる授業もばかばかしかったが、放課後は好奇心あふれる少女、友だちとこっそり見る韓国や日本のドラマに夢中になった。

「最初に感動したのはハリウッド映画の『タイタニック』。その次は日本のテレビドラマ『1リットルの涙』。沢尻エリカさんの八重歯がチャーミングだったなあ。日本ってこんな街並みなんだってあこがれたりもした。『冬のソナタ』や『イヴのすべて』『天国の階段』、ヒットした韓流ドラマはほとんど見ましたよ。たまたま幼稚園からピアノのクラスで一緒だった友だちのお母さんが売っていたんです。中国から仕入れたDVDを自宅でコピーして。部屋のなかが空のDVDでいっぱいでした」

鈴木琢磨(すずき・たくま)ジャーナリスト。毎日新聞客員編集委員。テレビ・コメンテーター。1959年、滋賀県生まれ。大阪外国語大学朝鮮語学科卒。礒𥔎敦仁編著「北朝鮮を解剖する」(慶應義塾大学出版会)で金正恩小説を論じている。金正日の料理人だった藤本健二著「引き裂かれた約束」(講談社)の聞き手もつとめた。

写真/初沢亜利

カテゴリー:
タグ:
関連記事
SPECIAL
  • アサ芸チョイス

  • アサ芸チョイス
    社会
    2025年03月23日 05:55

    胃の調子が悪い─。食べすぎや飲みすぎ、ストレス、ウイルス感染など様々な原因が考えられるが、季節も大きく関係している。春は、朝から昼、昼から夜と1日の中の寒暖差が大きく変動するため胃腸の働きをコントロールしている自律神経のバランスが乱れやすく...

    記事全文を読む→
    社会
    2025年05月18日 05:55

    気候の変化が激しいこの時期は、「めまい」を発症しやすくなる。寒暖差だけでなく新年度で環境が変わったことにより、ストレスが増して、自律神経のバランスが乱れ、血管が収縮し、脳の血流が悪くなり、めまいを生じてしまうのだ。めまいは「目の前の景色がぐ...

    記事全文を読む→
    社会
    2025年05月25日 05:55

    急激な気温上昇で体がだるい、何となく気持ちが落ち込む─。もしかしたら「夏ウツ」かもしれない。ウツは季節を問わず1年を通して発症する。冬や春に発症する場合、過眠や過食を伴うことが多いが、夏ウツは不眠や食欲減退が現れることが特徴だ。加えて、不安...

    記事全文を読む→
    注目キーワード
    最新号 / アサヒ芸能関連リンク
    アサヒ芸能カバー画像
    週刊アサヒ芸能
    2025/9/16発売
    ■620円(税込)
    アーカイブ
    アサ芸プラス twitterへリンク