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記事全文を読む→コロッケ&清水アキラ、2人に巡ってきた「チャンス」
個人事務所が倒産した清水アキラは、しばらく別の芸能プロに所属して、地方のスナックを回る地道な営業活動を続けていた。
そんな清水にようやくチャンスが訪れたのは、87年のことだった。フジテレビの「第三回 爆笑!スターものまね王座決定戦」でみごとに初優勝。ついに、ものまねタレントの頂点に立った。さらにその後も優勝2回、通算3回の優勝は、ビジーフォーの4回に次ぐ快挙である。
しかし一方で、そんな下ネタ芸にも、清水は行き詰まりを覚えた。
「五木さんたちのものまねを始めてウケたのはいいけど、次に何をやったらいいのか思い悩んだね」
悩んだ末に清水は、かつて「アキラオフィス」設立の際に事務所の間借りもさせてもらった、元あのねのねの清水國明に相談をした。
「清水さんは、とにかく精いっぱい、一生懸命やれと。一生懸命やってるやつにどうこう文句を言うやつはいないと言われて、なるほどと思ったね」
その言葉に励まされたのか、清水は誰も思いつくことがなかったある秘密兵器の発明に成功する。
それが、研ナオコや谷村新司の顔まねでおなじみ、その後、一世を風靡する「セロテープ芸」の誕生だった。
その頃、コロッケもものまねタレントとしての地位を確かなものにしつつあった。87年に放送された「第二回 ものまね王座決定戦」で優勝すると、今までのレパートリーに加え、新たに美川憲一のものまねでコロッケの名前は一躍、お茶の間に広まった。
「(番組に)本人がサプライズで登場するパターンが生まれ、NHKの『紅白歌合戦』で『さそり座の女』を競演させていただいた時は夢のようでした」
当時、大麻事件などで人気が落ち込んでいた美川憲一をよみがえらせたという意味でも、コロッケの功績は大きかった。
当時のコロッケといえば、何といっても顔芸である。トーク番組に出るようになったコロッケは、「どうやったら顔まね一つで美川憲一、森進一、岩崎宏美、五木ひろしを演じることができるのか?」
という質問に対して、「顔を柔らかくするために、毎朝15分、ぬるま湯につけて顔を柔らかくしています」
と答えていたが、これはウソである。
「これは、ものまねだけじゃなくしゃべりネタが欲しくて作った“ネタ”。ものまねにも何か、哲学のようなものが欲しかった」
単なる“ものまね芸人”から、エンターテイナーとして勝負できるタレントになりたい。そんな思いが、コロッケの胸の中に芽生え始めていた。
その顕著な例が、ムーンウオークである。
80年代に流行したマイケル・ジャクソンのムーンウオークをいち早く取り入れ、喝采を浴びた。
「アイドル界初がトシちゃん(田原俊彦)なら、ものまね界初は、僕。僕のものまねが単なるものまねから、エンターテインメントへ変わっていくきっかけになったのが、このムーンウオークでしたね」
ものまねブームで地方公演を行うチャンスが生まれた時、コロッケは真剣に「ものまね芸」を「ものまねショー」へと、ステップアップさせていきたいと考えていた。
こうしたものまねに対するあくなき情熱が、のちの「ものまねブーム」へと結実していくのである。
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