現今の企業のトップリーダーなどにも、こうしたタイプがいる。周囲はその識見には一目置いているが、存在感に比して社長在任中の実績はとなると、これはといったものが見当たらないのである。しかも、トップリーダーの座を降りても、業界への影響力なお衰えず...
記事全文を読む→内閣総理大臣
これにより、桂は西園寺公望に政権を譲ることとし、一方で西園寺からは、ポーツマス条約賛成を取り付けて面目を保った。その後の桂は、この西園寺と交互に内閣を率いることで第三次内閣まで務めることになるが、第二次、第三次内閣では見るべき成果はなく、実...
記事全文を読む→憲政史上最長の総理大臣在任期間2886日という「レコード・ホルダー」である桂太郎は、一方で誰にでも愛想がよく、周囲への気配りも抜群、ニコニコ笑いながら相手の背中をポンと叩くという親しみを感じさせる人心収攬(しゅうらん)術にたけていたことで、...
記事全文を読む→一方、この反骨の政治家は、政治以外のエピソードも豊富だった。記録に残る最古の始球式でボールを投げたのが、じつは大隈だった。明治41(1908)年、アメリカ大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の親善試合でのことだった。振りかぶった大隈の投球は...
記事全文を読む→中央政府で大蔵卿、第一次伊藤(博文)・第二次松方(正義)内閣で外務大臣として財政、外交への意欲と自信を見せた大隈重信だったが、いざ総理大臣としてオールラウンドのリーダーシップを問われる立場に立つと、脇の甘い性格を暴露、わずか4カ月の短命で第...
記事全文を読む→こうした短命内閣の背景は、大きく三つの要因が挙げられる。一つは、「隈板内閣」としての“二枚看板”への期待の声があったものの、両雄並び立たずで強力な推進力とはならなかった点だ。二つは、大隈は野党政治家としては、「在野の雄」との声があったように...
記事全文を読む→「無邪気の国民は、政治上の思想に乏しい。指導者がこれを教育して立憲的国民をつくっていかなければ、真の立憲政治は行われない」という立憲政治に対する言葉は、大隈重信が第一次内閣から退陣して9年後の、明治40(1907)年1月、憲政本党の総理を辞...
記事全文を読む→しかし、財政面での功績とは裏腹に、内閣を束ねたあとの松方はドジの連続であった。政治的リーダーシップが、著しく欠けていたことによる。ために、常に政局の混乱を招いていた。松方のリーダーシップ不足は、第1次内閣を組織するときにして、不安視させられ...
記事全文を読む→明治新政府には、大久保利通、井上馨、伊藤博文、陸奥宗光など政治的リーダーシップを発揮した人材は多々いたが、国の台所を賄うことには常に四苦八苦で、経済・財政理論に基づく財政家は乏しかった。背景には国家予算の「入」と「出」のバランスを取ることで...
記事全文を読む→一方で、若い頃から長く軍人生活を続けてきたことから、日常生活は判で押したようななんとも規則正しいものであった。起床は春夏は午前6時、秋冬は午前7時。朝食は乳1合、パン2片にコーヒー、昼食は和食で魚中心に3菜ほど、夕食は洋食でスープに野菜とも...
記事全文を読む→明治維新のときから軍務につき、軍隊の近代化を行って「陸軍の父」と呼ばれた山県有朋だったが、国民人気が湧かなかった点では、歴代総理の中でもトップクラスに入る。その理由は、「軍国主義の権化」といった不名誉なレッテルを貼られた一方で、内閣は議会や...
記事全文を読む→なぜ、山県は総理退陣後もここまで影響力を保持できたのか。一つは、極めてリアリストだったこと。二つは、人材発掘、育成の名手であり、育てた人物たちの強力な支えがあったことが大きかった。山県のリアリストぶりは、伊藤博文に似ていた。伊藤は時に妥協を...
記事全文を読む→明治・大正期を通じ、これほど畏怖された権力者はおらず、「富国強兵」を推進した明治国家建設のトップリーダーとして君臨したのが、この山県有朋であった。生まれは長門国(ながとのくに)(山口県)、初代内閣総理大臣の伊藤博文同様、身分は最下級とされた...
記事全文を読む→さて、黒田の大酒飲みぶりだが、これはなんとも度を越していた。酔っ払って帰ったときの夫人のあしらいが気に食わず、ぶっ殺してしまったと風評が立ったのが明治11(1878)年3月で、結婚9年後に妻の清(せい)が亡くなったときにこのウワサが出た。開...
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