11月に入り、朝晩の冷え込みが一段と身に染みるようになると、仕事帰りの赤提灯や大衆酒場で恋しくなるのが、湯気立ち上る燗酒だ。夏場の冷酒一辺倒から温かい日本酒へシフトする左党が増える時期だが、暖簾をくぐって開口一番「とりあえず熱燗で!」と大雑...
記事全文を読む→“日本のリヴァプール”博多スーパースター列伝<第1回>井上陽水(2)
CBS・ソニーで3枚のシングルを発表したものの、まったく鳴かず飛ばず。マネジャー的な役割も兼ねていた川瀬は、ホリプロという大手事務所ゆえの“壁”も感じる。
「営業伝票を切るのでも、1万円以下の仕事はダメって世界。だからクラブやスナックの弾き語りとか、彼にはきつい仕事もさせられていました」
2年が過ぎて売れなければ人員整理の対象となる。まず川瀬は新しいレコード会社を探し、ポリドールのディレクター・多賀英典に話を持ちかける。そしてホリプロの堀威夫社長(当時)にも直談判した。
「こういうジャンルの音楽は『営業』で売れる形じゃない。学生プロモーターとかのつながりが大事です」
そのため、スーツ着用のルールを解除してもらい、社内の別セクションとして「カレイドスコープ」の名義も用意してもらう。
また移籍したポリドールでは本名の「井上陽水」に改名。本来の読みは「あきみ」なのだが、あえて「ようすい」と読ませた。さらに多賀との出会いは大きかったと川瀬は言う。
「僕や陽水はサウンド重視だったけど、根が文学青年の多賀さんは『詞の深さ』を要求した。それで陽水もボブ・ディランやニール・ヤングの詞を研究したりしてました」
陽水としての初シングルとなった「人生が二度あれば」(72年3月)は、初期の傑作として名高い。年老いた父や母のことを歌っているが、この詞に対して多賀は苦言を呈した。
「まだお父さんは生きてらして、後悔なんかしてないだろう。お前がよけいなお世話で、人の人生を左右するような失礼なことはないんじゃないのか!」
陽水は衝撃を受け、以来、真剣に「詞の重要性」と向き合う。その後のシングルが「傘がない」(72年7月)であり「夢の中へ」であったことは、大きな変革である。例えば「傘がない」は、冒頭で「都会の若者の自殺増加」を振っておきながら、それよりも「君に会いに行くための傘がないほうが切実」と歌う。
この時期に陽水をインタビューした音楽評論家・富澤一誠は、こんな言葉を耳にしている。
「ポール・マッカートニーがあのままの形だったら日本では売れていない。それを日本風にしたのが僕」
それは、自身の内面を掘り下げる詞の部分を指してのことだった。
陽水は、ソニー時代には発売の機会がなかったアルバム「断絶」(72年5月)や「陽水II センチメンタル」(72年12月)を発表するたび、評価を高めてゆく。川瀬もまた、あえてホリプロと別名義の社名にしたことで地方とのつながりを実感する。
「九州を何カ所か回って、今で言う“出待ち”みたいな人が着実に増えていった。気に入ってくれた大分・日田のレコード店主はコンサート開催を申し入れてくれて、しかもその店だけでアルバム100枚のオーダー。まだ全国でも1000枚くらいしか売れていなかったのに、ですよ」
それは“噴火”が近いことを意味していた‥‥。
アサ芸チョイス
脳梗塞で療養中だった伊達みきお(サンドウィッチマン)が、10月31日の「サンドウィッチマンザ・ラジオショーサタデー」(ニッポン放送)で、2カ月ぶりに復帰した。「さあ、時刻はお昼の1時を回りました。こんにちは。サンドウィッチマンの伊達みきおで...
記事全文を読む→泉ピン子が訴えられた。映画製作会社「HumanPictures」が11月3日、所属監督の映画「AYUMI」と「養父」に出演したピン子に対し、損害賠償を求め2日付で東京地裁に提訴したと、公式Xで公表したのだ。問題が発生したのは、10月23日に...
記事全文を読む→毎日のように見聞きする「不正アクセスによる情報漏洩」のニュース。もはや情報漏洩していない企業のほうが珍しいんじゃないのってくらいだし、それどころか官公庁にまで被害は及んでいる。三菱UFJフィナンシャル・グループが、2027年3月までの開業を...
記事全文を読む→

