1980年代に一世を風靡した全日本女子プロレスのヒールレスラー、ダンプ松本の半生を描いたNetflixのドラマ「極悪女王」が大好評だ。ダンプは1980年8月、田園コロシアムでレスラーとしてデビュー。1984年にヒール軍団「極悪同盟」を結成し、リングネームをダンプ松本に改名した。当時、大人気だった長与千種とライオネス飛鳥のクラッシュギャルズと死闘を繰り広げ、全国に女子プロレスの大ブームを巻き起こした。
埼玉県熊谷市で生まれ育ったダンプは定職につかず、ほどんど家にも帰ってこなかった父に代わり、内職で細々と家計を支える母と妹の3人で、四畳半一間のアパートで少女時代を過ごした。時々、帰ってくる父は、母に暴力をふるった。大好きな母を苦しめるこの男をどうにかしてやりたい。そのためには強くなるしかない。それが、ダンプがプロレスラーを志す原点だったという。
だが新人時代には先輩や同期、フロントなどから理不尽なイジメやしごきを受けた。だからこそ、ダンプ自身は後輩に対して、自分が受けた理不尽なイジメやしごきなどを絶対に行わず、極悪同盟の結成時も悪口や陰口、告げ口などを禁止したとされる。
温厚で涙もろく、後輩から慕われる素顔は、リングの上では完全封印。凶器を多用した試合では毎度の流血がお約束で、ヒールとして極悪非道の限りを尽くす。1985年の髪切りデスマッチでは、長与を相手に凶器攻撃で両者血みどろになりながらも勝利。長与を丸刈りにして、ファンの罵声を一身に浴びることになる。
そんなダンプが待遇改善問題などで全女に嫌気が差し、電撃引退を発表したのは1988年1月17日だった。会場に詰めかけた報道陣は80人以上、テレビカメラ11台がズラリと並ぶ中、ダンプは切り出した。
「リングではもう暴れ尽くした。もう思い残すことはない。これからは四角いマットを飛び出して暴れてみたい」
今後は芸能活動を中心に仕事をしていく、と宣言したのである。その上で、
「もう三禁(酒・タバコ・男)もなくなるし、エッチなシーンは絶対に嫌だけど、大ファンの中村雅俊さんとならラブシーンをしてみたい」
そう言って、27歳の乙女心を覗かせたのである。
そして2月22日、大田区体育館で大森ゆかりとともに「引退特別試合」に臨んだダンプは、クラッシュギャルズを相手に4人全員が場外で流血後、ダンプのマイクアピールでパートナーを交換。なんとダンプ&長与組VS大森&飛鳥組という、最初で最後となる5分間のエキシビションマッチを行ったのである。そして最後は、
「クラッシュギャルズのファンの皆さん、今までチーちゃん(長与)やトンちゃん(飛鳥)のことをいじめてすいませんでした」
号泣し謝罪するダンプには、温かい拍手が送られた。2月28日の地元・熊谷市体育館での試合を最後に、両親と妹に見守られながらリングを下りたダンプ。こうして8年間にわたる壮絶極まるプロレス人生に、ピリオドが打たれたのだった。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。