1993年に開幕したJリーグで最初に優勝したチームは、鹿島アントラーズだ。この年のJリーグは2ステージ制。鹿島は1stステージを制し、栄冠を手にした。
宮本征勝監督体制で快進撃を続け、7月7日のアウェーの浦和戦(駒場スタジアム)で勝利。2試合を残して優勝を決めた。
試合後、宮本監督はチーム関係者から祝福され、報道陣に囲まれて喜びの気持ちを語った。しかし、スタジアム内でのこの光景に、不快感をあらわにする人物がいた。ほかでもない、ジーコだった。
他の記者に「ジーコが怒っているらしい」と聞き、彼のところへ向かうと「どういうことだ!」とブチ切れていた。チームのスタッフもワケがわからず、慌てふためいていたが、しばらくするとそのワケがわかった。
当時の鹿島は実質的に「ジーコ監督」というべき体制だった。鹿島はJリーグ開幕前に欧州に遠征し、クロアチアのチームに大敗を喫した。ジーコは「こんな負け方をするはずがない」と宮本監督のやり方に異を唱え、自ら指揮を執ることになった…という経緯がある。
選手としてのジーコはこの年、序盤でケガをしたこともあり、その後は「監督」に専念していた。ジーコからすれば「なぜ自分ではなく宮本が評価されるのか」という思いで、一気に不満が噴出したわけだ。
外国人は選手も指導者も、なにより評価を気にする。「なぜ指揮を執った自分が評価されないのか」という思いは当然なのだ。
その後、フロントとジーコは何度か話し合いの場を持ち、なんとか問題は解決した。翌年にはジーコの兄エドゥーがヘッドコーチに就任。鹿島は名実ともにジーコのチームとなった。
ただ、宮本監督は何もしなかったわけではない。その存在意義は非常に大きかった。トレーニングや戦術面はジーコに任せ、グラウンド外の選手のメンタルケアや、時にはチームや選手についての問題を把握するとメディアに情報を流し、その問題を可視化する…という荒治療もやっていた。
今振り返ってみても、ジーコと宮本氏の「2人監督体制」は悪くはなかったと思うのである。
(升田幸一)