これまで「天才ドリブラー」と呼ばれる選手は、サッカー界に数え切れないくらい登場した。しかし筆者にとって忘れられない天才トリブラーは、ヴェルディ川崎、セレッソ大阪で活躍したMF佐々木博和だ。
佐々木は1979年に日本で開催されたワールドユース選手権(現U-20W杯)の代表候補に選出。そのドリブルは15歳の頃から注目されていた。来日中のペレが佐々木のドリブルにほれ込み「ブラジルに連れて帰りたい」と称賛するほどだった。
初めて彼のプレーを目にしたのは1978年、ユース代表候補と日本代表との練習試合。当時、まだ16歳だ。所属の枚方FCでは「大好きなドリブルの練習しかしていなかった」という。
身長160センチくらいで、子供のようにヒョロっとして小さな佐々木がボールを持つと、得意のドリブルで日本代表を翻弄。最も鮮烈な印象を残したのがドリブルでスルリスルリ3人、4人と抜き去り、最後はセンターバックがユニフォームを引っ張って止めたシーンだった。
これは当時のサッカーファンに衝撃を与え、ユース代表での活躍が期待された。ところが佐々木は高校の出席日数が足りず、「学業優先」を理由にユース代表を辞退してしまった。当時としては珍しいクラブ育ち(枚方FC)で、高校のサッカー部所属選手のような融通がきかなかったのだ。
大きなチャンスを逃したように思えるが、この時のことを佐々木は「サッカーで食べていくつもりはなかったので、後悔はしなかった」と淡々と語っている。
それでもサッカーを愛する気持ちは変わらず、高校卒業後はJFLの松下電器でプレー。Jリーグ開幕時には、ヴェルディ川崎に所属した。
佐々木のボール扱いの上手さは、テクニシャン揃いのヴェルディの中でも群を抜いていた。とはいえ、ドリブルやボール扱いが上手ければ活躍できる…というわけではない。むしろスピードとフィジカルが重視されていた当時のJリーグには、うまくフィットしていなかったかもしれない。
その後、JFLのセレッソ大阪に移籍し、Jリーグ昇格に貢献。1995年に33歳で現役を引退した。
引退後は指導者に転身。「ブラジル代表のロナウジーショのようなドリブラーを育てたい」という夢を語っていた。選手をやめても、あくまでドリブルにこだわり続けていたのだ。
(升田幸一)